2025/5/5月曜日
5時半に起床しこどもの日のご馳走作り。
根菜の煮物を作っている間に鯉のぼりちゃん達を調理。

全て、クックパッドからレシピを拝借。
皆様ホントアイディアが素晴らしい。
色々と真似させて頂いた。
ご馳走作りの合間に米麹作り、
昨日から浸水させ朝から水切りしていた米を圧力鍋で蒸した。

種麹をまぶしパイレン布と晒し布で包んだら大鍋の中へ。
更に毛布で包んだ。
だいぶ暖かくなったので発酵機無しで作る事に。
圧力鍋が空いたら、次は柏餅作り。
あんこは自家製だけでは足りないので急遽買い足した。

上新粉を練って作ったお餅は40gずつ丸めようと計りを用意。
待ち構えていたかのように数字をいじってきた。
0表紙にしてもプラスにしたりマイナスにしたり。
これをやる為に昨日のうちに作戦会議していたな。
証拠の動画を撮影しようしたら悪さを止めた。
柏の葉っぱも急遽購入。

蒸し終わった柏餅を次々と包んでいった。
在宅の次男が出来立てのアッツアツを2個食べ、美味しい、とリアクション。
作ったかいがあった。
柏餅が完成したら、次は再び圧力鍋で鶏のさっぱり煮。
漸く終わりが見えた。
朝の5時半からずーっと台所に立ちっぱなし。
14時からは、漸く自分の時間。
読書と調べ物。
7/8晴れ この日も東の強風が強い。
出船は難しい状況だったが白河口応援の為には猶予も無い。
約30の小舟を引っ張る為の人夫を総動員。予定通り朝8時より出船を開始し午後3時頃に全隊古口に着船。
更に陸路を強行し夜10時、合海(新庄南7キロ)に到着。
ここを宿とした。
翌9日は朝8時、合海を出発。
最上川沿いに間道を取って午後4時に尾花沢に到着。
この間、約七里。
暑さと完全武装の強行軍により急病人が発生。
各小隊ごとに看護者を付け完治次第に本隊を追行せよとの命令で途中の村々に残してきた。
尾花沢は北上する最上川と東下する丹生川の合流地点。
昔から最上川の水運と羽州街道の宿場として栄えた。
7/10は朝8時出発、羽州街道を南下。
一度小休止し、正午頃、楯岡(尾花沢南13キロ)に到着。
ここで異変が。
同じく白河口応援の為、二日前に進発し、既に上山にあった松平甚三郎(久厚、家老・2000石、23歳)率いる一番大隊からの早馬。
使者芳賀善兵衛(御供頭・100石)の口上によると、「山形・上山藩より依頼あり。秋田藩列藩同盟に背き金山院内口に西軍(総督府軍または新政府軍)多数出兵せり。
同盟側からも仙台・米沢・山形・上山藩から出兵したが甚だ手薄である。
新庄藩は頼み難し、是非とも庄内藩の応援を願いたいとの事である」
↑新庄藩は嫁が薩摩藩から来てるからな。
これに対し松平甚三郎は軍を返せとの命無き上は進退を決すべからず。
尚、二番隊と協議し共に謀ろうとの返答をした。
二番大隊はこの地で待機。
鶴ヶ岡城に急を知らせ、2名の探索兵を新庄へ派遣。
夜に入り、鶴岡より遠藤増右衛門(近習頭・100石)が早馬で駆け付けてくるや、次の命を伝えた。
「秋田違約の廉顯然に付き一、二番隊は引き返し、直ちに秋田へ繰り込むべし」
この新庄・院内口は庄内藩征討を目標に攻め寄せる西軍に対する、謂わば、本土防衛戦で、より重要。
舟形の奇襲
7/11、早朝2時二番大隊は楯岡を出発。
午後3時には舟形(尾花沢北西9キロ)に到着。
新庄城下まで北へ6キロ。
到着するや吉之丞は軍議を開催。
探索方の報告を聞く。
この日の早朝、秋田との国境の新庄領金山(新庄の北13キロ)に布陣していた仙台藩を主力とする米沢・山形・上山・天童らの諸藩連合の東軍は西軍の先制攻撃を受けた。
西軍は新式装備の薩摩・長州・佐賀・小倉四藩連合の精鋭部隊。
三方よりの奇襲により東軍は不意を突かれ甚大な損害(仙台藩は隊長梁川播磨以下38名戦死)を出し潰走。
しかも、これを手引きしたのが前夜まで陣を共にし味方と信じていた新庄藩。
↑ほらな。嫁が薩摩藩から来てる新庄藩よ。
軍議の結論は①一番大隊の到着を待ち共に新庄へ進撃するべしとの慎重論。
②このまま直ちに進んで新庄城下に侵攻するべしとの積極論。
前年暮れに江戸の薩摩藩邸焼き討ちをも指揮した四小隊長竹内右膳(組頭・1100石)は硬骨の士で、二番大隊の副将格。
年齢も吉之丞と同じ26歳。
「今後速やかに新庄に迫らば戸沢家縦令異心あるとも、其勢い盟約に背き得間敷候。時を移して秋田及び西国の多勢入来たらば、又合從に心あるとも其勢い同盟に背かざる事難かるべし」(『庄内戦争録』)
軍議は進撃論に決定。
直ちに加藤文内(金請払役・140石)と小倉弥五郎(三人扶持)の両名に命じ新庄城下の旅宿確保に先発させる。
更に軍艦本多安之助(御使番・230石)に相良鈔之助(五人扶持)、生田権太夫(大手廻・20石三人)を付けて新庄の動向を探索させた。
本隊も準備完了し出発しようとしているところへ分内と弥五郎が戻って来るや、城下は早くも関門が造られ番兵がおり新庄物頭笹新右衛門が「最早官軍城下に入りぬ。(中略)先ず鳥越(城の南2キロ)に御宿陣あらんことを願う」と言ったと報告。
新庄藩は何度も使者をよこし時間稼ぎ。
夜半過ぎに城下に宿泊しても良い、と告げてきた。
が、地理不案内の地に夜中繰り込むのは危険であり罠かもしれない。
夜明けを待って進撃することにし、この夜は舟形に宿陣。
7/12晴れ朝から進撃の予定だったがここで問題が。
吉之丞が兵糧方を問い糾すと突然の秋田討ち入りに伴う兵糧の準備が出来ていないと言う。
この日は一番大隊の到着を待ちながら兵糧調達に全力。
舟形は住民は全て立ち退き粮米は無し。
それ以後の遠征中は粮米に困る事は無かった。
↑腹が減っては戦は出来ぬからな。
一番大隊はこの日払暁山形を出発。
天童で二番隊よりの使者と会う。
「金山の同盟軍大敗し、新庄反覆の兆しあり。速やかに軍を返されたし」
これにより一番大隊は炎天下の羽州街道を猛進。
36キロ先の尾花沢に日が暮れてから到着。翌日の舟形戦は二番大隊のみで戦う事に。
7/11に金山に宿営した西軍は翌12日敗兵掃討を行っていたが新庄藩からの庄内藩兵800名舟形に到着、の急報に先遣隊が新庄へ急行。
午後4時に新庄城下へ到着。
本隊も深夜0時に到着。
7/13曇り夜大雨
舟形で朝飯を済ました8時頃、西軍早くも来襲。
西軍は本道を中心に大砲を配備。
左右の小山から発砲。
先鋒は新庄藩兵2小隊(約100名)だが、後方の政府軍からその行動を監視されていた。
西軍は本道中央は薩摩隊と小倉三小隊、右翼は佐賀四小隊と砲二門、左翼は長州一中隊(隊長桂太郎、のちの陸軍大臣・首相)
いずれの各隊共ご丁寧に新庄兵十数名を生贄の如く先導させていた。
敵兵力は約500名。
(大山柏著『戊辰役戦史』、しかし、『小倉藩羽州出兵戦記』に依れば小倉兵は13日戦いに参加したとの記述はない。
新庄城下に到着したのが昨日の深夜。
舟形戦には間に合わなかったと考えられる)
↑暑い最中の戦は大変や。
特に武具が昔ながらの兵は。流石に兜を被った人は居なかったのか。
今日はここまで。
このあと、ご馳走の最後の仕上げをする事に。
歩数計は6646。
充実した一日だった。