arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1334日目と秋田・庄内戊辰戦争①

2025/5/4日曜日

3時に電磁波攻撃で覚醒。

そのあと、寝させてくれないので、ずーっと読書と調べ物。

 

今日からはこの本。

この本を読むのは2度目。

大好きな本。

今度、東北を旅行するので参考にする事に。

 

1868年(慶応四年)7月6日(新暦8月23日)朝、大隊長酒井吉之丞(了恒、中老・七00石)率いる庄内藩二番大隊の精鋭500名は鶴ヶ岡城大手門前の広場に整列し出陣式を行った。
藩士も登城し、まず、藩老よりこの度の奥羽越列藩同盟を固守し、苦戦する白河口応援に関する法令、軍令書の拝読があり、続いて藩主酒井忠篤から直々の御意と各小隊ごとに金100両を賜った。
午前十時、隊長の号令一下、付属の楽隊の太鼓、喇叭の音楽に合わせて威風堂々の行進を開始し、先頭には二番大隊の紋章、紺地に金の「北斗七星」を描いた"破軍星旗"が翻っていた。

そして、その編成は次のようであった(参考 和田東蔵『戊辰庄内戦争録』、坂本守正『庄内藩士名簿(稿)』)。

実際の戦闘部隊は、一〜八小隊であるが『戊辰庄内戦争録』には番号は無く、伝十郎隊、正蔵隊などと小隊長名を呼称していた。

便宜上筆者が番号を付けた。
また、同書には寺内権蔵の小隊が記入漏れのようなのでこれを第八小隊として追加。
小隊内には小頭、伍長と呼ばれる分隊長クラスが数名居た。
戊辰戦争終了時にはこれら小隊長、半隊長計14名のうち3名戦死、6名重傷という凄まじい戦闘を繰り広げる事になる。
附従隊とはよくわからないが本部の付属要員と考えられる。

土工兵を附属させているのが二番大隊の特徴。

他の大隊には見当たらない。

極めて近代的な部隊と言える。
この最初の編成には農民・商兵などの民兵は入っていない。

自発的に志願した民兵は最終的に全庄内軍の四割にも達し、彼らは自前で手に入れた銃を持って勇敢に戦った。
二番大隊を率い七星旗の下に不敗の進撃を続け、味方から名将・智将の名を欲しいままにし、敵の西軍(新政府軍)から「鬼玄蕃」と恐れられる酒井吉之丞はこの時26歳の若武者。
酒井玄蕃家は庄内藩主酒井家の分家(三代忠勝の弟了次の子孫)で代々玄蕃を名乗り家老を務める名家。
吉之丞は第十代玄蕃了明とお市の長子として天保十三年(1842年)十一月、鶴岡城下に出生。
幼少より書物と撃剣を好み、藩校致道館で文武を学んだ。

15歳で長沼流兵学の軍師秋保政右衛門に入門し頭角を現した。

後に、漢詩や文章もよくしたが、雅楽・笛にも長じていた。
文久三年(1863年庄内藩が江戸市中取締役の任に着くや、番頭を命じられ、長州藩邸の接収や水戸浪士の捕縛など江戸の治安を守る為に日夜活躍。
慶応三年(1867年)「丁卯(ていぼう)の大獄」事件が起き、祖父右京が改革派の首謀者として切腹

父了明が隠居した為に家督を継いだ。

が、家禄を1500石から700石に減らされ自身も逼塞させられた。
↑家禄半減て、酒井玄蕃家に激震やないかー!

これ、庄内藩に内紛起こさせる為に工作員がわんさか投入されとるな。

 

翌年、戊辰戦争が始まるや二番大隊長に抜擢された。
吉之丞は戦陣の合間に「戊辰役二十絶」という、いずれも優れた漢詩を残している。
また、庄内軍は敵地に於いても新政府軍を始め他藩兵とは異なり、少しの略奪暴行も許さず厳しく軍規を守った。

それは自作の詩にも表れている。

 

夕陽如染遠山平(夕陽染むるが如く遠山平かなり)

西母驛前暫駐兵(西母駅前暫く兵を駐む) 野老慣看總閑雅(野老看るに慣れて総て閑雅)

相携夾道拜高旌(相携えて道を夾んで高旌を拜す)

-<現代語訳>-------------- 夕陽が色美しく、遠くの山々を映え照らしている。 敗退した北軍は、湯沢横手二城の守備を厳にしてこの処砲声も聞こえない。 付近の村落の人々も次第に見慣れて、静かに和やかに打ち連れて、 道の両側で庄内軍の旗を拝しに来る。
http://seuru.pupu.jp/syounaisakaigenpakansi.htm

 

詩の内容は戦いの合間に風景を楽しみ、土地の古老が庄内軍を恐れず、親しんで姓名を尋ねてきたというのであろうか。
廃藩置県後も大泉県権大参事とのり兵部省に出仕。

明治七年に西郷南洲とも会った。

密命により清国の内情を偵察するなど将来が期待されたが明治九年二月、肺病の為、東京で逝去。

享年34歳。

墓は上野谷中霊園
↑余りに有望過ぎてDSにより暗殺抹殺対象になり毒物盛られたな。

 

話を二番大隊に戻す。
大隊は藤島村(鶴岡城北東7キロ)で昼食。
午後4時頃清川村に到着。
7/7 清川を朝出発。

最上川を舟で遡り古口まで進む予定が東風が強く舟を出す事は無理に。

そのまま清川に退陣。
ここで吉之丞は改めて軍令状並びに二番隊の法令を定め隊中に徹底させた。

この法令は十数ヶ条あるがいずれも秋霜烈日の如く厳しく、庄内隊の強さの秘密がわかる。
庄内藩戊辰戦争際論達された軍中規則を紹介。

庄内藩は、行軍中の行動を厳しく取り締ったり、占領地民政化の為、多くの規則や論達を発している。

その中で幾つか規則を紹介したいと思います。

 

1・庄内軍輜重に関する規則 身分の上下を問わず、一人一日玄米一升の割合で支給。兵食は握り飯に漬物、生みそまたは梅干の類を宿主に出させ、 必ず実費を払う事。 コメは駐屯予定地の村役人に前もって頼み、その土地の時価で代金を支払う事。 三日に一度ずつ、一人一朱(一両の1/16)見等の肴や汁の類を、宿に調理させる事。 夜具ふとん類はいっさい宿に求めず、陣中はすべて自分で炊飯するものと心得る事。宿はただ寝る為だけに借り、 時に炊き出しを請負わせるまで。ただし夏の候ゆえ、蚊帳だけは借りて借り賃を支払う事。

2・軍令状 宿駅の町中を通る時には足並みそろえて行進し、駅をはずれれば足並みを解くが、列を離れず、号令・合図にしたがって行動する事。 宿営地についたら必ずいったん整列し、号令にしたがって混雑のないよう各自の宿に入る。出陣のさいも同じくいったん整列し、足踏みをしてから 行進をはじめる事。宿陣は大太鼓・喇叭、出陣は小太鼓で合図する。 昼食の大休止、行軍二キロごとの小休止、休息からの行軍開始も、みな号令・合図によること。行軍停止は喇叭の長声で知らせる。 毎朝大隊本部で大太鼓・喇叭を鳴らしたら、小隊の宿はこれを受けて小太鼓を打つ。一番太鼓で朝食、二番で出発準備、三番で整列すること。

3・陣中規則(要約) 戦闘中に戦死・負傷者を介抱して戦機を逸してはならぬ。戦闘終了後に各隊それぞれに解放し処置すること。 投降したものを嘲ったり、生け捕ったものを辱ずかしめたりしてはならぬ。戦死した敵士卒の遺骸は、決して不作法に扱ってはならぬ。 隊長が若し討死した場合も、一隊は命令を次ぐものと心得え、その時に臨んでは狼狽しない事。 分捕りについては、自分が討ち取った相手の持ち物は格別だた、それ以外は各自上長の指図がないかぎり、みだりにてをつけてはならぬ。 右の条々はもちろん、お互いに相慎み、万一法令にそむき右各条を犯したものは、場合によっては死罪を申し付けるから左様心得よ。 下じも(輸卒・軍夫等)には別して厳重に申し含める事。

4・大隊長の訓諭(要約) この度の出兵は御家のいちだいじゆえ、出陣さきでの乱暴狼藉は申すに及ばず、強奪がましい所行があってはこれまでの御威徳を汚し、天地に対して申し訳も相立たず、また最後の勝利もおぼつかない。各自困苦にたえて年来の恩沢に報い奉るはこのときと、憤発精励されたい。

5・新庄藩領民に与えた酒井玄蕃(吉之丞)の論達 兵火に焼かれて困っているものは、官有林から家を建てる用材を伐り出してよい。 新庄藩士の家族で民間にかくれ、衣食に困り病にかかって難儀しているものには、手当てが行き届くよう、厚く意を用いてやる。 わが軍に敵対した士卒であっても、主人の為に戦死したものは、忠節を全うした義士として手厚く葬り、墓標を建てることにする。 領民一同非常の困苦にかんがみ、ことしの租税は半額とする。 庄内のものには、民の迷惑にならぬよう厳しく申し渡してあるが、万一不心得のものがあったなら、少しも遠慮せずに訴え出ること。以上。 各隊長に対しては・・・ 薪・草鞋等を現地調達する際は、必ず代価を支払い、少しでも駐屯地の人民に迷惑をかけぬようにし、何事によらず自国庄内の民に臨むと同じ心得で 対することが専要である。

6・松山隊将永井丹治の矢島領民への論達。 年来高恩をうけた領主を離れ、兵火に苦しみ難渋したうえ、他領の指図をうけることさぞ心外とは察するが、生駒家が破盟出兵して庄内へ攻め入ったのだから、こうなるのもやむをえぬ仕儀である。しかし農工商民の非戦闘員が戦闘とはかかわりない事情を、当役所はよく了解しているから、領民一同、安居楽業を心がけるように。

庄内藩の軍規、素晴らしい。

もっと素晴らしいのが、守らないと死罪。

 

8時過ぎに長女を駅まで送迎。

そのあと、畑で米ヌカを施肥。

帰宅後、納戸の清掃。

納戸の中を小さな蛾が大量に飛び交っているのを発見。

調べると、玄米の袋に一杯付いていた。

慌てて、納戸の大掃除。

そこら中に繁殖。

納戸の中の物を全部出し、水洗い出来るものは水洗い。

出来ない物は乾いた雑巾や歯ブラシ等で取り去った。

DSから物凄い報復を受けた。

が、手をこまねいている場合では無い。

夕方15時半まで掃除。

昼に長男とお孫ちゃん達が来訪したが、自分は掃除に掛かりっきり。

夫が素麺を茹でて昼食を食べさせてくれた。

念の為に米袋の中を調べると、二袋は中にまで幼虫が。

急遽、精米に行くことに。

お孫ちゃん達は初めての精米体験を喜んで見学していた。

長男が手伝ってくれたおかげで、何とか整理が付いた。

そして、16時過ぎから夕食作り。

海老ポテトピザ、ソーセージピザ、ボルシチ、紫キャベツサラダ、納豆、ウォッカ梅酒ロック。

自分はピザは一切れのみ。

納豆ご飯とボルシチとサラダでお腹を満たした。

ボルシチ用に作ったサワークリームが大好評だった。

お皿は長男が洗ってくれた。

嫁は体調不良で来なかったのでお土産にピザとサラダを持たせた。

雨が止んだ20時過ぎに帰って行った。

静かになった台所で、味噌と醤油のカビ取り。

残業ですわ。

奴らは定期的に仕込むから。

塩分20%のわいの味噌に挑戦するDS達。

カビの部分を取り除けば、いつものわいの味噌の風味。

♪何のために生まれて〜♫何をして生きるのか♪

悪魔にはわかんないわな。

いや、悪魔はわいを死なせる為に存在しているのか。

長い付き合いになりそうだ。

 

歩数計は12310。

充実した一日だった。