arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1332日目と上宮王家④

2025/5/2金曜日

5時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。

雨予報だったので7時に子供等を駅まで送迎。

ついでにスーパーで買い物。

帰宅後、洗濯とベランダガーデニングの水遣り。

朝の家事を済ませたら10時半から読書と調べ物。

 

昨日に引き続き、佃收著「物部氏蘇我氏と上宮王家」

 

古事記』には允恭天皇は「遠飛鳥宮に座して天下を治める」とある。

「遠飛鳥」は肥前の「本飛鳥」から見て「遠い田舎の飛鳥」という意味である。

允恭天皇肥前の飛鳥から逃げて来た人である事を示している。

もし大和政権が存在しているならば「遠飛鳥宮に座して天下を治める」とは書かないであろう。

大和王権の都に座して」と書く筈である。

允恭天皇の「御陵は河内の恵賀の長枝に在り」とある。

大和で天下を治めていながら河内に埋葬されている。

貴国はその後、武内宿禰が最高実力者(天皇)に。

武内宿禰蘇我石川宿禰・紀角宿禰・巨勢小柄宿禰等を百済へ派遣。

皆「宿禰」が付いている。

武内宿禰にも「宿禰」が。

皆、上宮王家の臣下。

蘇我石川宿禰麻呂の子孫は蘇我稲目蘇我馬子蘇我蝦夷蘇我入鹿

591年に上宮法皇は王権を樹立。

上宮法皇は「紀男麻呂宿禰・巨勢猿臣・大伴連囓・葛城鳥奈良(那羅)」を「大将軍」に任命して筑紫に派遣。

「紀男麻呂宿禰」は貴国の「紀角宿禰」の子孫であろう。

「巨勢猿臣」は「巨勢小柄宿禰」の子孫であろう。

皆、貴国の将軍の子孫。

360年頃に渡来した時の上宮王家と宿禰等の「王と臣下」の関係は200年経った後にも守られている。

 

3「法興寺」と「法興年号」

法興寺の建立

●(崇峻)元年(588年)是歳、飛鳥衣縫造の家を壊して始めて法興寺を作る。

●(崇峻)三年(590年)十月、山に入り寺の材を取る。

●(崇峻)五年(592年)十月、是の月、大法興寺の仏堂と歩廊を起こす。

●(推古)元年(593年)正月、仏の舎利を以て法興寺の刹柱の礎の中に置く。

●(推古)四年(596年)十一月、法興寺、造り竟(おわ)る。『日本書紀

 

法興寺が建立された「飛鳥の真神原」は肥前の飛鳥。

今の佐賀県三養基郡北茂安町東尾。

 

(2)法興寺肥前の飛鳥

法興寺肥前の飛鳥に建立された事は法興寺蘇我蝦夷(豊浦大臣)との関係からも言える。

蘇我蝦夷肥前三根郡葛木の豊浦に住んでおり「豊浦大臣」と言われた。

豊浦大臣は法興寺に蓮の花を描いた絵を献じる。

 

六月丁酉朔甲辰。中大兄、密謂倉山田麻呂臣曰、(中略)天皇大極殿。(中略)中大兄、見子麻呂等畏入鹿威便旋不進、曰、咄嗟。卽共子麻呂等出其不意、以劒傷割入鹿頭肩。(中略)佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、斬入鹿臣。(中略)中大兄即入法興寺、爲城而備。『日本書紀

 

天皇皇極天皇であり、宝皇女。

中大兄(後の天智天皇)は宝皇女の子。

上宮王家の皇子。

中大兄は蘇我入鹿を伐った後、法興寺に逃げ込んでいる。

乙巳の変」は飛鳥板蓋宮で起きている。大極殿は飛鳥板蓋宮であり、飛鳥板蓋宮は肥前の飛鳥にある。

乙巳の変」は肥前の飛鳥で起きている。

法興寺蘇我氏の寺と言われているが、そうならば中大兄は法興寺へ逃げ込む筈がない。

法興寺は上宮王家の寺である。

法興寺肥前の飛鳥(飛鳥の真神原)に建立されている。

肥前の飛鳥は上宮王家の本拠地である。

法興寺は上宮王家の本拠地に建てられている。

法興寺が上宮王家の寺であることは明らかである。

 

(3)法興寺と法興年号

法興寺」は上宮法皇の「法興」年号と同じ。

上宮法皇は591年に王権を樹立。

法興寺は588年に建立が始まる。

法興寺」が臣下の蘇我馬子による建立ならば上宮法皇は年号を「法興」にしないであろう。

「法興」とは「仏法を興す」という意味。

 

(推古)二年(594年)二月、皇太子及び大臣に詔し三宝を興隆せしむ。

日本書紀

 

天皇」は上宮法皇

上宮法皇厩戸皇子蘇我馬子に「三宝を興隆せよ」と命じている。

日本書紀』は上宮王権(上宮法皇)を抹殺。

其の為、法興寺を建立したのは蘇我馬子にしている。

日本書紀』の捏造である。

 

3 蘇我氏の専横

(1)蘇我馬子の専横

蘇我馬子は阿毎王権の重臣から上宮王権の重臣に。

蘇我馬子が病気になると千人が出家。

天皇に継ぐ最高位。

621年に上宮太子厩戸皇子)が、622年2月22日に上宮法皇崩御

すると蘇我馬子は上宮王家に土地を要求。

 

三十二年十月癸卯朔、大臣〈〇蘇我馬子〉遣二阿曇連、〈闕名〉阿倍臣摩侶二臣一令レ奏二于天皇一曰、葛城縣者、元臣之本居也、故因二其縣一爲二姓名一、是以冀之、常得二其縣一以欲レ爲二臣之封縣一 『日本書紀

 

ここにおける天皇は上宮王家三男の殖栗皇子か四男の茨田皇子

どちらかわからないのでX皇子としている。

 

◯上宮王家の年号

●法興591-622年 初代、上宮法皇

●仁王623-628年 二代目、X天皇殖栗皇子茨田皇子

●聖徳629-641 三代目、舒明天皇(田村皇子)

 

(2)蘇我蝦夷の専横

馬子は626年に死去。

後を継いだ蝦夷はX天皇の娘婿の舒明天皇の代になると出勤がルーズになる。

 

(舒明)八年 (636年)七月、大派王、豊浦大臣に謂いて曰く、「群卿及び百寮、朝参 (朝 廷に出勤)す ること已 (す で)に据 (お こた) れ り。今より以後、卯の始めに朝 (ま い)り 、巳の後に退 (ま か)れ。因りて鐘を以て節とせよ」という。然るに大臣従わず。『日本書紀

 

朝廷への出勤がルーズになっている為、大派王が今後は午前6時に出勤し10時に退出せよと注意するも、従わず、とある。

642年に皇極天皇が即位すると、「八佾(やつ ら)の 舞」(天子のみが行う事の出来る舞)をする。

天皇家の民を使って墓を造らせる。

皇極天皇は「国に二つの王無し」と抗議。

 

(3)蘇我入鹿の横暴

蘇我蝦夷は病気になり大臣の位を子の入鹿に勝手に与える。

入鹿は上宮王家を滅ぼし古人大兄を天皇にしようとする。

642年に上宮王家は蘇我入鹿に襲われて滅びる。

 

(皇極)三年(643年)十一月、蘇我大臣蝦夷・児入鹿臣、家を甘梼(うまかし)岡に双べ起つ。大臣の家を呼びて、上の宮門という。入鹿の家を谷の宮門という。男女を呼びて王子という。『日本書紀

 

蘇我蝦夷と入鹿は自分達の家を「上の宮」「谷の宮」と言い、「宮殿」の扱いをした。

子供は「王子」と呼ばせる。

蘇我蝦夷と入鹿は上宮王家を滅ぼし遂に王位に。

「臣下」が「王家」を滅ぼして王になった。

 

(4)上宮王家の反撃「乙巳の変

中大兄は中臣鎌子の協力を得、蘇我入鹿を伐つ。

蘇我蝦夷と入鹿の墓は「予め双墓を今来に造る」とあるから「今来」は蘇我蝦夷の本拠地の近くにある。

肥前三根郡葛木の近くに埋葬されている。

蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿と4代続いた蘇我氏はこうして滅びる。

中大兄は蘇我蝦夷と入鹿を伐ち上宮王家を再興。

舒明天皇と宝皇女の間に生まれた皇子は「葛城皇子」(後の天智天皇

「葛城」は肥前三根郡の葛木(葛城)であろう。

宝皇女が生まれ育った肥前の飛鳥の隣にある。

↑上宮法皇と葛城鳥奈良臣は主従関係ながら、親しい関係にある。舒明天皇と宝皇女は幼い頃からの知り合いだったのでは?

 

596年には上宮法皇は葛城臣を連れて伊豫温泉へ行く。

 

法興六年歳次丙辰、我が法王大王、恵聴法師及び葛城臣と夷与村に逍遥し、正に神井を観る。(後略)

釈日本紀』(『伊豫国風土記逸文』)

 

「法興六年」は596年。

葛城臣は葛城鳥奈良臣であろう。

上宮王家では皇子が皆亡くなり王位を継承する人が居なくなった。

その時、葛城臣の皇子を婿に迎え王位を継がせたのであろう。

そこで生まれた子に葛城という名前を付けた。

田村皇子の祖父は葛城鳥奈良臣であろう。

 

(3)『日本書紀』の天皇の捏造

◯『日本書紀』の天皇とその王権

30代 敏達天皇 阿毎王権(十四世大市御狩連公)

31代 用明天皇 豊王権

32代 崇峻天皇 (雀部)

33代 推古天皇 豊王権

34代 舒明天皇 上宮王家

35代 皇極天皇 上宮王家

36代 孝徳天皇 豊王権

37代 斉明天皇 上宮王家

↑31代から37代までを見ただけでも王朝が4回も変わっている。

中国から渡来してきた人々が覇権争いをしている。

ま、その昔、古代からすんでる先住日本人は覇権争いに興味は無いだろうからね。

日々食べれればええんよ。

今、それが脅かされている。

現覇者は羈縻政策が下手。

骨の髄までむしゃぶり尽くそうとしている。

それじゃ寄生できん。

宿主死んじゃうやん。

 

 

12時に夫の昼食を用意。

午後も読書と調べ物。

17時半から夕食の用意。

焼き芋、鮭、ハムとスイスチャードの炒め物、朝の残りのおかず、残り物のシュウマイ、味噌汁、大根の葉炒め、サラダ、玄米ご飯、味噌汁、納豆、煮物、ウォッカ梅酒ロック。

19時から昨夜以来の食事。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら営業終了。

 

歩数計は4963。

充実した一日だった。