2025/5/1木曜日
5時に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、夫の昼食作り。
洗濯とベランダガーデニングの水遣りを済ませたら8時過ぎに畑へ。
まずは葉が倒れている玉ねぎとレタスとパセリ、あまえんどうを収穫。

大根が可愛い白い花を咲かせていたので急遽収穫。

買い物をしてから帰宅。
帰宅後、玉ねぎを保存する為に縛って干した。

やる事やったら、読書と調べ物。
第4章皇極天皇と孝徳天皇
1.皇極天皇と飛鳥
(1)皇極天皇とは
641年、舒明天皇が死去すると皇后(皇極天皇)が即位。
皇后は宝皇女であり皇極天皇。
宝皇女は上宮王家の皇女であり上宮法皇の孫。
『日本書紀』は上宮王家を抹殺しているから宝皇女を敏達天皇の系統に結び付けている。『日本書紀』の捏造である。
(2)飛鳥板蓋宮
皇極天皇(宝皇女)は即位すると小墾田宮に遷る。
舒明天皇は神埼郡の百済宮で死去。
殯も百済宮の北で行われている。
小墾田は蘇我稲目の本拠地。
小墾田は豊王権の本拠地。
皇極天皇がそこへ遷ったという事は小墾田は上宮王家の土地になったと言う事。
舒明天皇が豊王権から小墾田を奪ったのであろう。
しかし、皇極天皇は翌年には飛鳥に板蓋宮を建てる。
飛鳥には夫の舒明天皇の岡本宮がある。
飛鳥岡本宮は元々は上宮法皇の宮殿である。
宝皇女は自分の故郷である上宮王家の本拠地(肥前の飛鳥)に新しく飛鳥板蓋宮を造って住んだ。
3 孝徳天皇と難波長柄豊碕宮
(1)孝徳天皇の即位
『日本書紀』によると皇極天皇は孝徳天皇に天皇位を譲る、とあるが、皇極天皇は上宮王家の皇女である。
また、孝徳天皇は豊王権の人である。
用明天皇の孫である。
孝徳天皇も阿毎王権の敏達天皇の曾孫や押坂彦人大兄皇子の孫では無い。
皇極天皇は上宮王家の王であり、孝徳天皇は豊王権の人である。
上宮王家の皇極天皇が豊王権の孝徳天皇に天皇位を譲る筈がない。
よって、皇極天皇が「軽皇子に位を譲る」とあるのは『日本書紀』の捏造である。
(2)難波長柄豊碕宮
孝徳天皇は難波へ移る。
難波長柄豊碕宮は大阪市東区法円坂にある前期難波宮であると言われる。
(皇極)四年(645年)旧本に云う、是歳、京を難波に移す。而して板蓋宮の墟と為る兆しなりという。『日本書紀』
板蓋宮は皇極天皇の宮殿。
孝徳天皇が難波へ移るので上宮王家の板蓋宮は廃墟になるであろうとある。
多くの人々が難波へ移るからであろう。
この記述から見ても豊王権の本拠地(養父郡)と上宮王家の本拠地(飛鳥)は近い事がわかる。
同じ養父郡である。
(3)飛鳥板蓋宮と難波宮の併存
皇極天皇は天皇位を譲ることなく在位し続けている。
板蓋宮は上宮王家の宮殿として存続。
一方、豊王権は645年に難波へ本拠地を移し孝徳天皇は宮殿を難波に新しく造り、豊王権を難波に再興。
孝徳天皇は天子となり「大化」年号を建てている。
孝徳天皇は難波に王権を樹立すると祖父の用明天皇や大叔母の推古天皇に見習って年号を建てている。
(4)難波移住の真相(その1)
推古天皇が自身の豊浦と蘇我氏の小墾田を交換し小墾田へ移るのは603年。
ところが、642年に皇極天皇は小墾田へ移っている。
642年には小墾田は上宮王家の領土になっている。
舒明天皇の時代に小墾田の土地は上宮王家の土地に。
豊王権は舒明天皇に本拠地を奪われた為、他所へ逃げるしかない。
それが難波への移住。難波への移住は逃亡。
↑何で、逃亡先は「難波」?と考えた時、同様に近畿へ逃げた人を思い出した。
神功皇后。
同じ事やっとる。
そう思うと、これも、難波への逃亡&移住を正当化する茶番劇?
ユダヤ臭してきた。
ま、この辺りを拠点にして本丸(大和)を侵略しようしたのか。
で、まずは神功皇后一派を琵琶湖の向こうの不破の関の手前に住まわせ、東国・東海への抑えに。
で、難波にも拠点。
で、大和を挟撃、とな。
完璧や。
(2)難波移住の真相(その2)
『日本書紀』は皇極天皇が小墾田に遷移る。
或る本に云う、東宮の南の庭の權宮(かりみや)に遷る。『日本書紀』
或る本に依れば皇極天皇は權宮へ遷っている。
「乙巳の変」は(皇極)四年(645年)六月に起きている。
「乙巳の変」後、直ちに兵器を徴集。
(孝徳)大化元年(645年)九月、或る本に云う、六月より九月に至るまで使者を四方の国に遣わし種々の兵器を集める。
『日本書紀』
(孝徳)大化元年(645年)九月、古人皇子、蘇我田口臣川堀・物部朴井連椎子・吉備笠臣垂・倭漢文直麻呂・朴市秦造田来津と謀反す。(中略)中大兄、即ち菟田朴室古・高麗宮知をして、兵若干を将いて古人大市皇子を討たしむ。『日本書紀』
古人皇子が叛乱。
それを中大兄皇子が討伐。
古人皇子は蘇我馬子の娘の子。
孝徳天皇も蘇我氏の血を引いている。
孝徳天皇は次は自分が殺されると考え肥前から難波へ逃げた。
↑ことにしておこう。取り敢えず。
孝徳天皇は12月に難波へ移る。
これが孝徳天皇が難波へ移った真相(その2)である。
↑一応頭には入れておく。
(6)孝徳天皇と磯長陵
推古天皇は竹田皇子の墓(大野の岡の上)に埋葬される。
それを磯長陵に改葬。
用明天皇陵と推古天皇陵に比定されている古墳は方墳。
ところが孝徳天皇陵に比定されている古墳は円墳。
比定が間違っているのでは?
豊王権の磯長谷古墳群に埋葬されるはずが無い。
聖徳太子墓は孝徳天皇の墓では無いだろうか。
皇極天皇は孝徳天皇に天皇位を譲っていない。
ずっと板蓋宮で在位。
一方、孝徳天皇は肥前から難波へ移り豊王権を再興。
豊王権と上宮王家は併存。
宝皇女は642-661年まで連続して在位。「譲位」は無い。
従って「重祚」も無い。
2 植山古墳
(1)植山古墳とは
2000年、奈良県橿原市で6世紀末と7世紀前半の巨大な横穴式石室2つが東西に並んだ双室の方墳が発見された。
3 植山古墳と肥後
(1)植山古墳の石棺と扉
読売新聞の記事(2000年8月18日)によると、古墳内にある家形石棺の材質である阿蘇石は、乾燥時は薄いピンクで水に濡れると濃い小豆色に変わる。
5世紀末から6世紀前半の大王級の古墳にも使われている、とある。
東側石室の石材は阿蘇ピンク石であると言う。
(古代史の復元⑤『倭の五王と磐井の乱』参照)
東側石室の家形石棺は熊本県宇土市から運ばれている。
(2)椿原古墳
植山古墳と関係があると思われる古墳に椿原古墳がある。
◯椿原古墳(熊本県宇土市椿原町)
●方墳で横穴式石室。幅2.24m✕奥行3.8m。刳抜(くりぬき)玄門の石材は阿蘇ピンク石。築造時期は7世紀前半。
(3)刳抜玄門
『椿原古墳』の中で蔵富士寛氏は「刳抜玄門について」次のように述べている。
九州に於いて、刳抜玄門を有する古墳は肥後地域にのみ存在。
現在では21例が知られている。
(5)植山古墳と宇土半島
植山古墳は宇土半島と関係が深い。
石棺を宇土から運ばせているという事は植山古墳の主は宇土半島の出自ではないだろうか。
「古代史の復元⑤『倭の五王と磐井の乱』」に私は継体天皇の阿蘇ピンク石製石棺について、次のように書いた。
継体天皇の墓といわれる今城塚古墳からも阿蘇ピンク石製石棺が出土している。
継体天皇の石棺であろうと言われている。継体天皇の石棺は熊本県宇土市から運ばれている。
恐らく継体天皇の父が宇土付近の出自であり、継体天皇は故郷の阿蘇ピンク石製石棺に埋葬される事を望み、石棺を宇土から運ばせたのであろう。
更に植山古墳の西側の石室には扉があり、開閉する為に「しきみ石にほぞ穴が開いている」という。
これは肥後の刳抜玄門が発展した姿であろう。板石を刳り抜いて出入り口にしていたのを止めて扉にしたのである。
このように、植山古墳は肥後の出身者の墓である。
第4章 蘇我氏と上宮王家の争い
1 上宮王家の先祖
(1)上宮法皇と蘇我馬子
蘇我馬子は阿毎王権の重臣である。
阿毎王権のために群臣を集めて物部守屋を討伐している。
ところが594年には上宮法皇の臣下になっている。
(推古)二年(594年)二月、皇太子及び大臣に詔して三宝を興隆せしむ。
『日本書紀』
上宮法皇は皇太子(厩戸皇子)と大臣(蘇我馬子)に対し「三宝を興隆せよ」と命じている。
蘇我馬子が阿毎王権から離れた事は裴世清の来日記事からもわかる。
阿毎王権は600年に隋へ朝貢し、607年に再び朝貢して「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」という国書を上表。
その翌年(608年)に隋から裴世清が来る。阿毎王権の重臣は裴世清を出迎えるがその中に蘇我馬子の名前は無い。
(2)上宮王家と蘇我氏の関係
蘇我馬子は阿毎王権の重臣であった。
その地位を棄てて上宮法皇の臣下になっている。
何故であろうか。
それは上宮王家と蘇我氏は先祖の時代から深い関係にあったからである。
蘇我蝦夷は専横を極める。
このとき、上宮大娘姫王が登場。
(皇極)元年(642年)、蘇我大臣蝦夷、己が祖廟を葛城の高宮に立てて、八佾(やつら)の舞をす。(中略)また、蓋に国を挙げ、並びに百八十部曲を発して、予め双墓を今来に造る。一つを大陵といい、大臣の墓と為す。一つを小陵といい、入鹿臣の墓と為す。(中略)更に、尽くに上宮の乳部の民を聚めて墓所に役さす。是に、上宮大娘姫王、発憤して嘆きて曰く、『蘇我臣、専ら国政を欲しいままにし、多いに行い無礼。天に二つの日無く、国に二つの王無し。何よりてか、意の任(まま)にことごとに封せる民を役さす』という。
『日本書紀』
蘇我蝦夷は豊浦大臣であり、本拠地は肥前の三根郡葛木の豊浦である。
上宮王家はその隣の肥前の飛鳥にある。
蘇我蝦夷は上宮王家の民を勝手に使って墓を造らせている。
「上宮大娘姫王」とは宝皇女。
641年に夫の舒明天皇が死去した為に即位し皇極天皇になっている。
上宮王家は先祖の代から「王」
蘇我氏は「その臣下」
(3)上宮王家と貴国
蘇我氏は360年頃、中国東北地方から逃げてきて肥前の三根郡の石川に住み着いた蘇我石川宿禰の子孫。
上宮王家もこの時、一緒に逃げで住み着いたのであろう。
渡来した豪族には「宿禰」の称号が付いている。
「宿禰」等は中国東北地方から逃げてきて北部九州に上陸し熊襲を伐ち貴国を建国。その時の中心人物は神功皇后。
「宿禰」が付いている。
上宮王家の臣下であろう。
(注)允恭天皇は『日本書紀』では「雄朝津間椎子宿禰天皇」である。
「宿禰」の称号が付いている天皇である。やはり、中国東北地方からの逃亡者。
上宮王家の臣下だったのであろう。
天皇(王)になれる身分では無い。
『古事記』では「男浅津間若子宿禰命」となっている。
允恭天皇は「宿禰」でありながら天皇になっている。
『日本書紀』の捏造。
允恭天皇は肥前から大和に逃げてきてその地域を征服し「首長」になったのであろう。
それを『日本書紀』は万世一系にする為に大和の天皇に仕立てている。
大和には天皇にするような人物が居なかった。
大和王権が存在していない証拠。
↑混乱甚だしかった中国から一杯日本に逃げてきましたとさ。
17時半から夕食作り。
自分は18時から呑みながら料理。

シュウマイ、焼きそば、ジャーマンポテト、サラダ、大根の煮物、大根の葉の炒め煮、ローストナッツ、納豆、朝の残り、味噌汁、玄米ご飯、ウォッカ梅酒ロック。
19時から昨日以来の食事。
食後は読書と調べ物をする事に。
歩数計は7756。
充実した一日だった。