2025/4/30水曜日
4時半に階下からの機械音で覚醒。
鉄筋マンションなのにドッドッドッと規則的に聞こえてくる。
全く部屋で何やってんだか。
下の住人にSMSで煩いから機械止めて、と苦情を入れといた。
そのまま起床し長女の朝食とお弁当のおかず、夫の昼食作り。
洗濯とベランダガーデニングの水遣りを済ませたら7時半から読書と調べ物。
第2章 豊王権の樹立
1 用明天皇とその王権
(1)用明天皇の即位問題
『日本書紀』は敏達天皇が死去したので用明天皇が即位したと書いている。
●(用明)即位前紀(585年)(敏達)十四年(585年)八月、渟中倉太玉敷天皇(敏達天皇)崩ず。
九月、(用明)天皇、天皇位に即く。磐余に宮をつくる。
名付けて池辺双槻宮という。
●(用明)元年(588年)正月、穴穂部間人皇女と立てて皇后と為す。『日本書紀』
(用明)元年は586年である。
在位は586-587年の2年間。
橘豊日命、池辺宮に座して天下を治めること参歳なり。この天皇、(蘇我)稲目宿禰大臣の女、意富芸多志比売(おおぎたしひめを娶り、御子多米王を生む。(中略)
此の天皇(丁未年四月十五日崩)、御陵は石寸(いわれ)の掖上(いけのうえ)に在り。後に科長の中陵に遷すなり。
『古事記』
「池辺宮に座して天下を治める事参歳(3年)なり」とある。
◯用明天皇の在位
●『日本書紀』586-587年 2年間
●『古事記』 585-587年 3年間
◯阿毎王権の王統
●初代 十三世物部尾輿(在位552-569年)
●二代目 十四世大市御狩連公(在位570-584年)=敏達天皇
●三代目 十五世物部大人連公(在位585-588年)=押坂彦人大兄皇子
『日本書紀』は敏達天皇の死去を585年にしているが敏達天皇(阿毎王権十四世大市御狩連公)が死去したのは584年。
(2)王権の樹立
穴穂部皇子は用明天皇から王位を奪おうとした事からも用明天皇は王位に就いていたと思われる。
『襲国偽僣考』の「九州年号」を見ると用明天皇の年号と思われるものがある。
●勝照
用明帝之時、和重二年に終わる。
「襲国偽僣考」
用明天皇の時に「和重」という年号があり、「二年」で終わるとある。
用明天皇の在位は『古事記』では585-587年であり、『日本書紀』では586-587年の2年である。
「和重二年」と合っている。
「和重」年号は用明天皇の年号では無いだろうか。
用明天皇は585年に即位し、年号を建てたのが586年であるとすれば全てが上手く合う。
用明天皇の在位は次の通り。
◯用明天皇の在位
●585年 即位
●586年 和重元年 年号を建てる
●587年 和重二年 穴穂部皇子に殺される
この時期の北部九州は阿毎王権が支配。
「勝照」年号は阿毎王権の年号。
「勝照」年号と「和重」年号は重なる。
●阿毎王権の年号 「勝照」585-588年
●用明天皇の年号 「和重」586-587年
二つの年号が重なるのは王権が併存しているから。
北部九州に阿毎王権と用明天皇の王権が存在。
用明天皇は阿毎王権から独立し新しい王権を樹立。
(注)上宮法皇が阿毎王権から独立するのは591年。用明天皇の独立の方が早い。
阿毎王権では584年に敏達天皇が死去。
敏達天皇は偉大な王であった。
敏達天皇は阿毎王権の領域を北部九州から瀬戸内海沿岸や日本海沿岸まで拡大。
その敏達天皇が584年に死去し息子の十五世物部大市連公が王位を継いだ。
物部守屋は甥の若い天皇に対し横柄な振る舞いをするようになる。
阿毎王権内部は乱れた。
用明天皇はそれを見て肥前に新王権を樹立&独立。
2 用明天皇と豊王権
(1)「豊」の付く天皇や皇子
用明天皇には「豊」の付く天皇や皇子が居る。
↑わいもそれに気付いて、なんか意味あるん?とずっと気なっていた。
◯「豊」の付く天皇及び皇子
●橘豊日天皇 用明天皇
●豊御食炊屋姫天皇 推古天皇
●豊耳聴聖徳 厩戸皇子
●天豊財重日足姫天皇 皇極天皇
●天萬豊日天皇 孝徳天皇
●天豊財重日足姫天皇 斉明天皇
「豊」の付く天皇や皇子の多くは河内の磯長陵に埋葬される。
◯磯長陵に埋葬された人物
●(崇峻)四年(591年)訳語田天皇(敏達)を磯長陵に葬す。
●(推古)元年、橘豊日天皇(用明)を河内磯長陵に改葬す。『日本書紀』
●豊御食炊屋比売(推古)。御陵は大野の岡の上に在り。後に科長の大陵に遷す。『古事記』
●(推古)二十九年、上宮厩戸豊聡耳太子(厩戸皇子)を磯長陵に葬す。
●(白雉)五年、天萬豊日天皇(孝徳)を大阪磯長陵に葬式す。『日本書紀』
(2)「豊王権」
『日本書紀』は厩戸皇子を用明天皇の子と書いている。
元年春正月壬子朔。 立穴穗部間人皇女爲皇后。 是生四男。
其一曰廐戸皇子 【更名豐耳聰聖德、或名豐聰耳法大王、或云法主王】、 是皇子初居上宮、後移斑鳩、 於豐御食炊屋姬天皇世、位居東宮、 總攝萬機、行天皇事、語見豐御食炊屋姬天皇紀、
其二曰來目皇子。 其三曰殖栗皇子。 其四曰茨田皇子。『日本書紀』
『日本書紀』が捏造した。
敏達天皇は阿毎王権の第二代目の天子。
北九州鞍手郡に本拠地がある。
恐らくそこに埋葬されている。
なので、敏達天皇が磯長陵に埋葬されたというのは『日本書紀』の捏造である。
3用明天皇と厩戸皇子
(1)用明天皇と厩戸皇子の問題
2人は親子では無い。
厩戸皇子(上宮太子=聖徳太子)は上宮法皇の子。
厩戸皇子は当時既に有名。
上宮法皇を出すと万世一系では無いとバレるので用明天皇の子にした。
↑有名だったのは法隆寺で有名だった?
(2)用明天皇と孝徳天皇
用明天皇の本来の名前は『橘豊日天皇』
用明天皇の名前には「豊日」が付く。
孝徳天皇は皇極天皇と姉弟であると言う。
皇極天皇は敏達天皇の曾孫で押坂彦人大兄皇子の孫で茅渟王の娘。
上記の人々は阿毎王権の人々。
皇極天皇は上宮王家の人。
孝徳天皇は豊王権の人。
孝徳天皇の父母は誰であろうか。手掛かりは「豊日」
用明天皇の在位 586-587年
孝徳天皇の在位 645-654
約50年の開きがある。
◯用明天皇と孝徳天皇の関係
用明天皇(橘豊日)
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(X)
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孝徳天皇 (天萬豊日)
●此の天皇(用明天皇)、(蘇我)稲目宿禰大臣の女、意富芸多志比売(おほぎたしひめ)を娶り御子多米王を生む。
『古事記』
●(用明)元年(586年)正月、蘇我大臣稲目宿禰の女石寸名を立てて嬪と為す。是田目皇子を生む。(更の名は豊浦皇子)『日本書紀』
「豊浦」は推古天皇の本拠地。
田目皇子は「豊王権」の人。
田目皇子は用明天皇の子であるから田目皇子は孝徳天皇の父ではないだろうか。
4 「欽明紀」の系譜
(1)欽明天皇とその御子
欽明天皇には御子が多い。
『古事記』でも「併せて二十五王なり」とある。
(2)「欽明紀」の捏造
(欽明)元年ー(欽明)十三年五月条までは物部王権の記録。十月条からは阿毎王権の記録。
◯欽明天皇の御子で天皇になった人物
●敏達天皇 第二子 阿毎王権
●用明天皇 第四子 豊王権
●崇峻天皇 第十二子 雀部
●推古天皇 中女 豊王権
これら4人が全て同じ親から生まれたのでは無い事は明らか。
欽明天皇の御子と思われる人物は居ない。
それどころか、欽明天皇自身がどの王権に属する人物であるか不明。
架空の人物であろう。
「欽明紀」は物部王権と阿毎王権の記録。
「日本書紀」は抹殺した物部王権・阿毎王権・豊王権・上宮王家の記録である。
「日本書紀」の内容は「北部九州の歴史」である。
2 推古天皇と豊王権
(1)用明天皇以降の王位争い
584年 敏達天皇崩御
585年 用明天皇が肥前の磐余に王権を樹立
586年 天子となり和重年号を立てる
587年 穴穂部皇子に殺される
穴穂部皇子は587年4月15日にに用明天皇を殺すが587年6月に蘇我馬子に誅殺される。
穴穂部皇子は王位を奪って2ヶ月後に殺される。
穴穂部皇子が殺されると崇峻天皇が即位。
(崇峻)即位前紀(587年)八月、炊屋姫尊と群臣と天皇を勧めて天皇位に即く。
(中略)是月、倉梯に宮を造る。(崇峻)元年(588年) 『日本書紀』
日本書紀によると、崇峻天皇は587年8月に即位。
が、592年に蘇我馬子に殺される。
崇峻天皇の在位は588-592年
日本書紀によると、崇峻天皇が殺されて空位が続いたので推古天皇が即位したという。
推古天皇の在位は593-628年。
これらを纏めると以下の通り。
◯用明天皇以降に起きた王位争奪事件
●585年、用明天皇、阿毎王権から独立して『豊王権』を樹立
●587年4月15日、穴穂部皇子、用明天皇を殺す
●587年6月、蘇我馬子、穴穂部皇子を抹殺
●587年8月、崇峻天皇、即位
●592年11月、蘇我馬子、崇峻天皇を殺す
●592年12月、推古天皇、即位
全て王位争い。
これらの事件は用明天皇が「豊王権」を樹立した時から始まる。
これらの事件は肥前の出来事。
崇峻天皇も肥前の人である。
(2)肥前の養父郡の争い
崇峻天皇は『日本書紀』では「泊瀨部天皇」古事記では「長谷部若雀天皇」「若雀」が付いているから「雀部」の人であろう。
「磐井の乱」後、雀部男人は物部麁鹿火に2人の娘と「小墾田屯倉」「桜井屯倉」「茅渟山屯倉」を献上。
「雀部」の本拠地は肥前養父郡。
雀部男人が献上した土地を蘇我稲目が奪い本拠地にしている。
雀部の崇峻天皇はその土地を奪い返したのであろう。
蘇我馬子にとって養父郡は父蘇我稲目の本拠地。
それを崇峻天皇に奪われた。
蘇我馬子は養父郡の土地を取り戻す為に592年に崇峻天皇を殺害。
その証拠に上宮法皇はこの事件を「内乱」と言っている。
(崇峻)五年(592年)十一月、(蘇我)馬子、東漢直駒を使わし天皇を弑す。(中略)駅使(はいま)を筑紫の将軍の所に遣わして曰く、「内乱に依り外事を怠るなかれ」という。『日本書紀』
天皇を殺害したのであれば「内乱」とは言わない。
崇峻天皇が天皇位に即いたというのは『日本書紀』の捏造であろう。
蘇我稲目の娘堅塩媛の子。
用明天皇と兄妹。
用明天皇は肥前に「豊王権」を樹立するが穴穂部皇子に殺される。
「豊王権」の王統は中断。
蘇我馬子は穴穂部皇子を誅殺し姪の推古天皇を「豊王権」の王にしようと画策。
ところが、崇峻天皇の方が先に養父郡の王になった事を宣言。
恐らくこの時養父郡の土地が奪われた。
其の為、推古天皇の即位を取りやめに。
蘇我馬子は5年後の592年に崇峻天皇を伐ち、直ちに推古天皇を即位させる。
592年11月13日に蘇我馬子が崇峻天皇を殺すと12月には推古天皇が即位。
(4)推古天皇の年号
推古天皇は592年に肥前に「豊王権」を再興。
北部九州には阿毎王権と上宮王家が存在。北部九州に3つ目の王権が誕生した。
『襲国偽僣考』はこれら3つの王権の年号を伝える。
●端政
崇峻天皇二年甲寅、端政元年とす。如是院年代記に端改に作る。一説に曰く、崇峻帝の時、端政五年に終わる。
●吉貴
推古天皇二年甲寅、吉貴元年とす。海東諸国記。従貴に作る。一説告貴に作る。曰く推古帝の時、告貴十年に終わる。又曰く、按ずるに一説に推古元年を貴楽と為す。二年を端正と為す。三年を始哭と為す。始哭は一に始大に作る。四年より十年に至り法興と為す。(後略)
●願転
推古七年辛酉。願転元年とす。海東諸国記に作る。一説に曰く、願転四年に終わる。『襲国偽僣考』
(注)「端政」年号の「崇峻天皇二年甲寅」は「己酉」の誤り。『二中歴』では「己酉」になっている。
これらの年号は次のようになる。
◯『襲国偽僣考』の九州年号
・端政 589-593年
・吉貴 594-(603年)
・願転 601-604年
「告貴(吉貴)十年に終わる」とある。
吉貴は594-603年までとなり、次の「願転」年号と重なる。
「告貴(吉貴)十年に終わる」は間違いであろう。
『二中歴』を見ると次のようになっている。
◯『二中歴』
●端政五年 己酉
●告貴七年 甲寅
●願転四年 辛酉 『二中歴』
『二中歴』では「告貴(吉貴)」は「七年」になっている。
次の「願転」年号とも合う。
『襲国偽僣考』は誤りである。
『二中歴』によって修正された「九州年号」は次のようになる。
◯修正された「九州年号」
●端政 589-593年
●吉貴 594-600
●願転 601-604
「端政」年号は阿毎王権の十五世物部大人連公の年号。
◯十五世物部大人連公(押坂彦人大兄皇子)の年号
●「勝照」585-588年
●「端政」589-593年
連続している「吉貴(告貴)」、「願転」も阿毎王権の年号であろう。
『襲国偽僣考』はこれらの年号の他に「始哭(始大)」年号が存在した事を伝える。
●吉貴
推古天皇二年甲寅、吉貴元年とす。(中略)又曰く、按ずるに一説に推古元年を喜楽と為す。二年を端正と為す。三年を始哭と為す。始哭は一に始大に作る。四年より十年に至り法興と為す。『襲国偽僣考』
今までに無かった「始哭」年号がある。
推古天皇の時代であるから推古天皇の年号であろう。
推古天皇の在位は593-628年
阿毎王権や上宮王権と重なる。
「始哭」は「豊王権」の年号であろう。「始哭」年号は何年から何年まであるのかは不明。
(5)推古天皇と田目皇子
(用明)元年(586年)正月、蘇我大臣稲目宿禰の女石寸名を立てて嬪と為す。是れ田目皇子を生む。(更の名は豊浦皇子)『日本書紀』
田目皇子の更の名は豊浦皇子とある。「豊浦」は地名。
田目皇子はこの「豊浦」に住んでいたのでは。
田目皇子の子は孝徳天皇。
孝徳天皇は645年の「乙巳の変」後、肥前から大阪の難波へ移る。
(孝徳)大化元年(645年)十二月、天皇、都を難波長柄豊碕宮に遷す。
『日本書紀』
孝徳天皇は難波へ移り河内の磯長まで領土を拡大。
祖父の用明天皇と育ててくれた推古天皇の墓を河内の磯長陵へ移す。
●(推古)元年、橘豊日天皇(用明)を河内磯長陵に改葬す。『日本書紀』
●豊御食炊屋比賣命(推古)。御陵は大野の岡の上に在り。後に科長の大陵に遷す。『古事記』
↑九州、特に九州北部は外国からどんどん外国人が流れて来て、そこで、大陸さながらの権力争いが勃発して、大変だったのな。
覇者が変わる度に翻弄されたと推測。
正に、You達何しに日本へ?ですわ。
12時に夫に昼食のフォーを用意。
ついでに夕食の下ごしらえ。
自分は食べないから、そのまま読書と調べ物を続行。
18時50分に夕食の用意。

玄米ご飯、味噌汁、納豆、ハンバーグ、とん平焼き、昨日の生春巻、朝の残り、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は2857。
充実した一日だった。