2025/4/29火曜日
5時半に起床し長女と夫の朝食と昼食作り。
そして、今夕の長女の誕生日パーティーの仕込み。
長女の好物のフォーと生春巻を作るので、朝からスープを煮たり、食材を洗ったり茹でたり。
洗濯とベランダガーデニングの水遣りを済ませたら、スープ用の肉の粗熱を冷ます間に生春巻用のタレ2種を手作り。
10時半に午前の仕込みが終了したら、読書と調べ物。
(敏達)十四年(585年)六月、〈或本云、物部弓削守屋大連、大三輪逆君、中臣磐余連、倶謀滅佛法、欲燒寺塔、并棄佛像。馬子宿禰諍而不從。〉『日本書紀』
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700428210184598
大三輪逆君は物部守屋と共に仏教の受容に反対している。
阿毎王権の出来事である。
大三輪逆君も阿毎王権の臣下。
三輪君逆は福岡県朝倉郡三輪町の豪族(王)であろう。
三輪町には大三輪神がいる。
(雄略)十四年春正月丙寅朔戊寅、身狹村主靑等、共吳國使、 將吳所獻手末才伎漢織吳織及衣縫兄媛弟媛等、泊於住吉津。 是月、爲吳客道通磯齒津路、名吳坂。 三月、命臣連迎吳使、卽安置吳人於檜隈野、因名吳原。 以衣縫兄媛奉大三輪神、
『日本書紀』
身狭村主青は筑後に帰って来た後、「衣縫の兄媛を以て大三輪神に奉る」とある。
福岡県朝倉郡三輪町がある。
470年頃、筑前朝倉郡三輪町に大三輪神社があったのであろう。
三輪君逆は大三輪神社を祀る豪族であると思われる。
また「中臣磐余連」も出てくる。
「磐余連」の「磐余」は地名。
磐余にいる豪族であろう。
用明天皇はそこに宮殿を建てている。
このように「穴穂部皇子の乱」に登場する人物は全て北部九州の人である。
◯「穴穂部皇子の乱」に登場する人物
●物部守屋ー阿毎王権の皇子
●三輪君逆ー福岡県朝倉郡三輪町の豪族(王)
●中臣磐余連ー肥前の磐余に居る中臣氏
●蘇我馬子ー用明天皇の叔父(肥前の三根郡)
●推古天皇ー肥前の三根郡、養父郡
3 磐余の双槻宮
(1)磐余の池辺
用明天皇の宮である「磐余の池辺双槻宮」は肥前にある。
(2)神功皇后の磐余若桜宮
肥前の磐余は神功皇后の「磐余の若桜宮」と同じところではないだろうか。
●(神功)摂政前紀、皇后は熊襲征伐をする。
●(神功)元年(新羅を伐った明年)二月、皇后、群卿及び百寮を領いて穴門の豊浦宮に移る。即ち天皇(仲哀)の喪を収めて海路より京に向かいう。(カゴ坂王と忍熊王の叛乱があり、忍熊王を琵琶湖の瀬田の済(わたり)で殺す)
●(神功)二年十一月、(仲哀)天皇を河内国長野陵に葬す。
●(神功)三年正月、誉田天皇を立てて皇太子と為す。因りて以て磐余に都す。是を若桜宮という。『日本書紀』
日本列島に安住の地を求めて渡来。
神功皇后は九州に来て筑前から肥前を廻り、先住民の熊襲と戦い、貴国を建国。
その後、神功皇后は近畿へ逃げて佐紀に住み着いている。
◯神功皇后の熊襲征伐
●仲哀天皇は香椎宮で熊襲と戦い戦死。
●神功皇后は橿日宮(香椎宮)を出発し熊襲征伐に。実際は橿日宮が安住の地では無くなったから逃げた。
●神功皇后は博多を経て御笠(筑前国御笠群御笠ー大宰府町水城付近)へ来る。
●安(筑前国夜須郡ー福岡県朝倉郡夜須)に来て熊鷲を伐つ。
●肥前を通り、山門縣(筑後国山門郡山門)へ行き、すぐ引き返して松浦縣(肥前国松浦郡)へ行く。
●伊覩縣(福岡県前原市)に住み着く。
これが貴国の領土。
次に神功皇后は九州を追われ近畿へ逃げる。
それが「(神功)元年」条。
●(神功)元年、忍熊王を瀬田で殺し、佐紀に住み着く。
ところが次の「(神功)二年」条に仲哀天皇を「河内国長野陵」に埋葬したとある。この間、仲哀天皇の遺骸を持っていた事になる。
神功皇后は熊襲征伐に出てすぐに仲哀天皇を埋葬したのではないか。
仲哀天皇を埋葬した所は河内国長野陵とある。
しかし当時はまだ「国、郡」は制定されていない。
北部九州に「長野」がある。
神功皇后は熊襲征伐に出て間もなく仲哀天皇を基山町の「長野陵」に埋葬したのだろう。
その1ヶ月後の(神功)三年条に神功皇后は「磐余に都す。是を若桜宮という」とある。
明治十五年頃の調査資料によると佐賀県基肄郡神辺(こうのいえ)に「若桜」がある。
「長野」から3km。
当時の低地は湿地帯。
「若桜」という地名は無くなっているが鳥栖市役所作製の地図に載っている。
第2章 豊王権の樹立
1 用明天皇とその王権
(1)用明天皇の即位問題
『日本書紀』は敏達天皇が死去したので用明天皇が即位したと書いている。
●(用明)即位前紀(585年)(敏達)十四年(585年)八月、渟中倉太玉敷天皇(敏達天皇)崩ず。
九月、(用明)天皇、天皇位に即く。磐余に宮をつくる。名付けて池辺双槻宮という。
●(用明)元年(588年)正月、穴穂部間人皇女と立てて皇后と為す。『日本書紀』
敏達天皇は585年に崩じ用明天皇は9月に即位。
(用明)元年は586年である。在位は586-587年の2年間。
橘豊日命、池辺宮に座して天下を治めること参歳なり。この天皇、(蘇我)稲目宿禰大臣の女、意富芸多志比売(おおぎたしひめを娶り、御子多米王を生む。(中略)
此の天皇(丁未年四月十五日崩)、御陵は石寸(いわれ)の掖上(いけのうえ)に在り。後に科長の中陵に遷すなり。
『古事記』
「池辺宮に座して天下を治める事参歳(3年)なり」とある。
◯用明天皇の在位
●『日本書紀』586-587年 2年間
●『古事記』 585-587年 3年間
◯阿毎王権の王統
●初代 十三世物部尾輿(在位552-569年)
●二代目 十四世大市御狩連公(在位570-584年)=敏達天皇
●三代目 十五世物部大人連公(在位585-588年)=押坂彦人大兄皇子
『日本書紀』は敏達天皇の死去を585年にしているが敏達天皇(阿毎王権十四世大市御狩連公)が死去したのは584年。
(2)王権の樹立
穴穂部皇子は用明天皇から王位を奪おうとした事からも用明天皇は王位に就いていたと思われる。
『襲国偽僣考』の「九州年号」を見ると用明天皇の年号と思われるものがある。
●勝照
用明帝之時、和重二年に終わる。「襲国偽僣考」
用明天皇の時に「和重」という年号があり、「二年」で終わるとある。
用明天皇の在位は『古事記』では585-587年であり、『日本書紀』では586-587年の2年である。
「和重二年」と合っている。
「和重」年号は用明天皇の年号では無いだろうか。
用明天皇は585年に即位し、年号を建てたのが586年であるとすれば全てが上手く合う。
用明天皇の在位は次の通り。
◯用明天皇の在位
●585年 即位
●586年 和重元年 年号を建てる
●587年 和重二年 穴穂部皇子に殺される
この時期の北部九州は阿毎王権が支配。
「勝照」年号は阿毎王権の年号。
「勝照」年号と「和重」年号は重なる。
●阿毎王権の年号 「勝照」585-588年
●用明天皇の年号 「和重」586-587年
二つの年号が重なるのは王権が併存しているから。
北部九州に阿毎王権と用明天皇の王権が存在。
用明天皇は阿毎王権から独立し新しい王権を樹立。
(注)上宮法皇が阿毎王権から独立するのは591年。用明天皇の独立の方が早い。
阿毎王権では584年に敏達天皇が死去。敏達天皇は偉大な王であった。敏達天皇は阿毎王権の領域を北部九州から瀬戸内海沿岸や日本海沿岸まで拡大。その敏達天皇が584年に死去し息子の十五世物部大市連公が王位を継いだ。物部守屋は甥の若い天皇に対し横柄な振る舞いをするようになる。阿毎王権内部は乱れた。
用明天皇はそれを見て肥前に新王権を樹立&独立。
↑この時期、北部九州に阿毎王権、上宮王家、豊王権の3つの王権が併存していたて、凄いね。
この4世紀頃〜中国も群雄割拠の戦国時代。
神功皇后もそこから逃げて来たとか。
中国大陸の内乱を経験した人々にとって、日本はチョロかったんだろうね。
それでも、先住民からすれば、侵略や。
今日はここまで。
15時から夕食の準備。
ウォッカ梅酒ロックを呑みながら。

エビとコハダ、カニカマをメインに具に33個作成。
夜遅く帰ってくる次男に4個取り置きした。
タレはニョクマム&レモン汁味と酢味噌ピーナッツ味。

フォーのスープは八角とシナモンスティックと肉と生姜で朝から煮込んだ。
孫達にも大好評だった。
食後は一休みしてから、夫が焼いたお誕生日ケーキ。
すっかり定番となったお誕生日ケーキも孫達の大好物。
ロウソクの火も一緒にフーフー。
孫達と違って、何本もあって大変だった(笑)
いつも出掛けていて居ない長女のお誕生日パーティーを数年ぶりで開催。
賑やかなお祝いとなった。
お皿は嫁と長女が洗ってくれた。
長男一家は20時に帰って行った。
ありがたく、読書と調べ物をする事に。
歩数計は5053。
充実した一日だった。