arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1328日目と畑と豊王権①

2025/4/28月曜日

5時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。

洗濯とベランダガーデニングの水遣りを済ませたら畑へ。

今夜は雨予報になっていたので水遣りはしないで、収穫だけした。

思いの外倒れた玉ねぎが多く、10個程収穫。

早生品種で4月下旬収穫予定だったので、丁度良い頃合いだった。

一旦家に収穫物を置いてからスーパーへ買物に。

11時に帰宅すると、夫の昼食用のハンバーグ等は無くなっていた。

聞くと、10時頃にお腹が空いて食べたらしい。

ま、予備のハンバーグはあるから大丈夫だけど。

食材を仕分けしたら11時半から読書と調べ物。

昨日に引き続き佃收著「物部氏蘇我氏と上宮王家」

 

第4部 豊王権
第1章 用明天皇 
1 用明天皇と磐余
(1)用明天皇
用明天皇(橘豊日尊)は蘇我稲目の娘堅塩媛の子。

(欽明)二年春三月。 納五妃。(中略)次蘇我大臣稻目宿禰女曰堅鹽媛 【堅鹽、此云岐拕志】。 生七男六女。 其一曰大兄皇子、是爲橘豐日尊。 其二曰磐隈皇女【更名夢皇女】 初侍祀於伊勢大神、後坐姧皇子茨城解。 其三曰臘嘴鳥皇子。 其四曰豐御食炊屋姬尊。『日本書紀
http://himiko-y.com/scrp1/kojiki-55.html#kinmei08

 

用明天皇(橘豊日尊)と推古天皇(豊御食炊屋姫尊)は兄妹。

用明天皇は即位し磐余に宮を造る。


橘豐日天皇、天國排開廣庭天皇第四子也、 母曰堅鹽媛。 天皇信佛法尊神道。 十四年秋八月。 渟中倉太珠敷天皇崩。
九月甲寅朔戊午。 天皇天皇位。 宮於磐余、名曰池邊雙槻宮。『日本書紀

 

用明天皇の宮は「磐余の池辺の双槻宮」であると言う。

 

(2)用明天皇の本拠地
妹の推古天皇肥前三根郡葛木の豊浦宮で即位している。
後には祖父蘇我稲目の本拠地である肥前の養父郡の小墾田宮に遷っている。

叔父の蘇我馬子肥前三根郡を本拠地に。

妹の推古天皇も祖父も叔父も全て肥前の人。

用明天皇肥前の人ではないだろうか。


(3)肥前の磐余
用明天皇の宮の磐余は肥前にもある。

阿知使主が喚んで渡来した漢人の中に「石寸(いわれ)村主」かいる。

石寸(いわれ)村主は肥前に住んでいる。また、身狩村主青が呉から帰国した時にも「磐余」が出てくる。

 

(雄略)十年秋九月乙酉朔戊子。 身狹村主靑等、將吳所獻二鵝、 到於筑紫。 是鵝、爲水間君犬所囓死。 【別本云 是鵝、爲筑紫嶺縣主泥麻呂犬所囓死。】
由是、水間君、恐怖憂愁、不能自默。 獻鴻十隻與養鳥人、請以贖罪。 天皇許焉。 冬十月乙卯朔辛酉。 以水間君所獻養鳥人等、 安置於輕村磐余村二所。

日本書紀

 

雄略十年は466年だから倭王興の時代。

倭王興は筑紫君。

身狭村主青等は呉が献じた二羽の鵝(がちょう)をもって筑紫君の待つ筑後に帰ってくる。

筑後川に上陸すると水間君(筑後の三潴)の犬に鵝は噛まれて死ぬ。

水間君は罪を贖う為に鴻十隻と養鳥人を献じる。

「養鳥人を以て軽村・磐余村の二所に安置す」とある。

軽村と磐余村に養鳥人を安置している。

筑紫君王朝の出来事。

軽村と磐余村は筑後肥前にある。
軽村は肥前の養父郡。

大将軍大伴連狭手彦が高句麗を伐った時、戦利品を蘇我稲目に贈る。

その時の美女を「軽の曲殿に居らしむ」とある。

 

(欽明)二十三年八月条
八月。天皇遣大将軍大伴連狹手彦。領兵数万伐于高麗。狹手彦乃用百済計。打破。(中略)甲二領。金飾刀二口。銅鏤鍾三口。五色幡二竿。美女媛〈媛名也〉。并其従女吾田子。送於蘇我稲目宿禰大臣。於是。大臣遂納二女以為妻居軽曲殿。

日本書紀

 

蘇我稲目の本拠地は肥前の養父郡。

妻は本拠地に住まわせるだろう。

「軽村」は肥前の養父郡である。

「磐余村」も肥前にあるのであろう。

用明天皇の「磐余の池辺双槻の宮」も肥前の磐余(石寸)ではないだろうか。


https://www.senshu-u.ac.jp/eurasia/database-n/koukuri-atako-1.pdf

 

2 穴穂部皇子の乱
(1)穴穂部皇子とは
日本書紀』に「穴穂部皇子の乱」がある。


●(敏達)十四年秋八月乙酉朔己亥。 天皇病彌留、崩于大殿。 是時、起殯宮於廣瀬。(中略)穴穗部皇子欲取天下、發憤稱曰 「何故事死王之庭、 弗事生王之所也。」
●(用明)元年夏五月。 穴穗部皇子、欲姧炊屋姬皇后而 自强入於殯宮。 寵臣三輪君逆、乃喚兵衞。(中略)穴穗部皇子陰謀王天下之事而 口詐在於殺逆君、 遂與物部守屋大連率兵、 圍繞磐余池邊。 逆君、知之、隱於三諸之岳。 是日夜半、潛自山出隱於後宮。 【謂炊屋姬皇后之別業。 是名海石榴市宮也。】(中略)穴穗部皇子卽遣守屋大連 【或本云、 穴穗部皇子與泊瀬部皇子、 相計而遣守屋大連】 曰「汝、應往討逆君幷其二子。」 大連遂率兵去。
蘇我馬子宿禰外聞斯計、 詣皇子所、卽逢門底 【謂皇子家門也。】 將之大連所、時諫曰 「王者、不近刑人。不可自往。」 皇子不聽而行。 馬子宿禰卽便隨去、到於磐余 【行至於池邊】而切諫之。 皇子乃從諫止、仍於此處踞坐胡床、 待大連焉。『日本書紀

 

敏達天皇の殯(もがり)の時に穴穂部皇子は「天下を取らむとす」とあるから穴穂部皇子は王位を狙っている。
穴穂部皇子敏達天皇が死去した時、皇后の炊屋姫皇后を姦そうとする。

三輪逆はそれを防ぐ。

穴穂部皇子は(物部)守屋を遣わして三輪君逆を伐った。

 

(2)穴穂部皇子の討伐
蘇我馬子穴穂部皇子を抹殺。

 

(崇 峻)即位前紀 (587年)六月、蘇我馬子等、炊屋媛尊 (推 古天皇)を 奉りて佐伯連丹経手 。土師連磐村・的臣真噛に詔 して曰く、
「汝等、兵を厳かにして速やかに往きて穴穂部皇子と宅部皇子を誅殺せよ」という。 『日本書紀

https://tsukudaosamu.com/pdf/6-7.pdf

 

穴穂部皇子蘇我馬子によって殺される。

 

(3)「穴穂部皇子の乱」の真相
穴穂部皇子は「逆君を殺すと口に詐」り「磐余の池辺を囲む」とある。

「磐余の池辺」は用明天皇の宮殿がある所である。

逆君を殺すと偽って宮殿を囲んでいる。

宮殿を囲むのは王を殺す為である。

穴穂部皇子用明天皇を殺したのではないだろうか。
日本書紀』は穴穂部皇子物部守屋大連を遣わして逆君を殺したと書いている。

しかしこれは『日本書紀』の捏造。

物部守屋は阿毎王権の人物。

阿毎王権は北部九州を支配。

しかも、物部守屋は阿毎王権の先の天皇(十四世孫物部大市御狩連公)の弟。

今の天皇(十五世物部大人連公)の叔父。物部守屋に命令出来るのは阿毎王権の天皇以外に居ない。

このような人物に穴穂部皇子が逆君を伐つよう命令出来る筈がない。

物部守屋が登場する事自体がおかしい。『日本書紀』は「或る本に云う、穴穂部皇子、自ら行きて射殺すという」と書いている。

これが史実であろう。

逆君を射殺したのでは無く、穴穂部皇子は自ら用明天皇の宮殿(磐余の池辺)へ行き、用明天皇を射殺。

これが「穴穂部皇子の乱」の真相。
穴穂部皇子が何で天皇の宮殿を囲んで射殺するとか言う恐ろしい所業に出たかを、想像。

穴穂部皇子の母の小姉君は超絶な美人だったのは何処かの本で読んだ。

娘の穴穂部間人皇女も美人。

その「間人」は「破斯(はし)」でペルシャ人を意味するのでは、と言う記述も何処かで読んだ。

奈良時代にはペルシャ人の役人も居たくらい。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%B4%E6%96%AF%E6%B8%85%E9%81%93


で、小姉君は蘇我馬子の兄妹。

父は稲目。

稲目と言えば、先述したように、朝鮮半島からの戦利品の美姫2名を軽宮に住まわせ妻とした。

その美姫から生まれたのが小姉君なのでは?と思い始めた。

わいにはその美姫達も工作員にしか思えん。

美人局的な?

穴穂部皇子も自分の母親のルーツを知ると複雑な心境だったのでは、と想像。

↑勝手に美姫を母親にしているが、、、。

そもそも戦利品に外国から美女2名連れ帰る、という感覚が理解出来ない。

というか最低。

今日はここまで。

 

16時に夫と長男がお孫ちゃん達と帰宅。

暫し、戯れた。

16時半に雨の中お出かけ。

長男とお孫ちゃん達はお家に送り届け。

自分と夫は長女を駅で拾い、呑み屋へ。

長女が夫のお勤めご苦労さん会を開いてくれた。

3人で20時まで良く呑み良く食べた。

帰りは代行サービスで帰宅。

長女と夫は日本酒で2次会。

自分は、読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は6731。

充実した一日だった。