arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1327日目と上宮王家③

2025/4/27日曜日

7時に起床し洗濯とベランダガーデニングの水遣り。

合間に納豆作りと寒天サワークリームケーキ作り。

11時過ぎに昼食会場へ。

長男一家と嫁のこ両親とランチをする事に。

皆で武蔵野うどんと日本酒を美味しく頂いた。

帰りは嫁が運転してくれた。

13時に帰宅後、読書と調べ物。

昨日に引き続き佃收著「物部氏蘇我氏と上宮王家」

 

2 上宮王家の本拠地
(1)岡本宮
上宮王家の本拠地は肥前

厩戸皇子は605年10月に肥前から斑鳩へ移る。

翌年、天皇に呼ばれ肥前に戻り仏典を講釈している。

 

秋七月(ふみづき) 天皇請(ませる)皇太子 令講(とく)勝鬘經(しようまんきやう) 三日(みか)說竟(をへる)之 是歲(ことし) 皇太子亦(また)講法華經(ほふくゑきやう)於岡本宮(をかもとのみや) 天皇大(おほき)喜之 播磨國水田(た)百町(ももところ)施(おくる)于皇太子 因以納(いれる)于斑鳩寺(いかるがでら)
日本書紀
http://hjueda.on.coocan.jp/koten/shoki42.htm

 

これは推古紀なので、従来天皇推古天皇、皇太子は厩戸皇子と考えられていた。
が、厩戸皇子上宮太子
上宮太子は上宮法皇の皇太子。

よって、天皇は上宮法皇の事である。
岡本宮は上宮法皇の宮殿であろう。

上宮法皇の本拠地は肥前なので、この宮殿は肥前岡本宮である。

舒明天皇は即位すると翌年に飛鳥の岡本宮へ還る。


●(舒明)元年(629年)正月、大臣及び群卿、共に天皇の璽印を以て田村皇子に献じる。(中略)即日、天皇位に即く。
●(舒明)二年(630年)十月、天皇、飛鳥岡の傍に遷る。是を岡本宮という。
日本書紀


舒明天皇は上宮法皇の孫の宝皇女の婿。

上宮王家から王位を譲られて即位。

舒明天皇が即位翌年に遷ったのは肥前の飛鳥の岡本宮

よって、上宮王家の本拠地は「肥前の飛鳥」

 

(2)百済大宮
岡本宮は6年後に火災に遭う。

舒明天皇はこれを機に肥前神埼郡に新しい宮殿を建てる。


舒明天皇の宮の変遷
●(舒明)二年(630年)十月、岡本宮に遷る。
●(舒明)八年(636年)六月、岡本宮火災。天皇、田中宮に居す。
●(舒明)十一年(639年)七月、詔して曰く、「今年、大宮及び大寺を造作せよ」という。即ち百済川の側を以て宮處と為す。
●(舒明)十二年(640年)十月、百済宮に徙る。
日本書紀
百済川神埼郡を流れる城原川である。


(3)蘇我馬子の二つの家
●(敏達)十三年(584年)、馬子、亦、石川の宅に仏殿を修治る。仏法の初め、これよりおこれり。
●(推古)三十四年(626年)五月(蘇我馬子)大臣薨る。仍って桃原墓に葬す。(中略)飛鳥河の傍らに家する。乃ち庭の中に小さな池を開き、仍りて小嶋を池の中に興す。故、時人、嶋大臣という。

日本書紀


「石川の宅」は肥前三根郡を流れる寒水川にある。
もう一つの家は「飛鳥河の傍らに」あるという。
寒水川は家を建てられる場所は上流と下流にしか無い。

上流は『風土記』の肥前国三根郡漢部(綾部)郷がある。

綾部の地名は後世まで続いている。

蘇我馬子の「石川の宅」は寒水川下流にある。
寒水川下流で川の側に家が建てられそうなところは佐賀県三養基郡中原町石井であろう。

蘇我馬子の「石川の宅」は寒水川の「石井橋」のすぐ上の辺りにあったのではないか。


(4)飛鳥河
もう一つの家は「飛鳥河の傍ら」飛鳥河は寒水川の近くを流れる山ノ内川ではないだろうか。

今の三養基郡中原町大字原古賀であろう。

 

(5)川原宮
斉明天皇は宝皇女。

上宮法皇の孫。

斉明天皇は飛鳥の板蓋宮で即位。

その後、川原宮へ遷る。

 

(斉明)元年(655年)正月、皇祖母尊、飛鳥板蓋宮に於いて天皇位に即く。是の冬、飛鳥板蓋宮に災けり。故、飛鳥川原宮に遷り居す。『日本書紀


山ノ内川の東に丘陵がある。

山ノ内川は西へ曲がり、東の丘陵とは分かれて寒水川に合流。

その分かれ目の丘陵に「川原」という地名がある。

「こうばる」と呼ぶそうだ。

ここにあったのではないだろうか。
↑グーグルマップで調べたら近くに一本桜で有名な東尾大塚古墳があった。

 

(6)『万葉集』の飛鳥河
万葉集』に飛鳥河が出てくる。


●『万葉集』巻十三 3227番

葦原笶 水穂之國丹 手向為跡 天降座兼 五百万 千万神之 神代従 云續来在 甘南備乃 三諸山者 春去者 春霞立 秋徃者 紅丹穂經 <甘>甞備乃 三諸乃神之 帶為 明日香之河之 水尾速 生多米難 石枕 (後略)

 

飛鳥河(明日香川)は「神名火(かんなび)の三諸の神の帯にせる」とある。

川原宮があったと思われる佐賀県三養基郡北茂安町東尾字川原から北北西を見ると山が三つ、少しずつズレながら重なって見える。
三諸山は真神原と関係がある。


●『万葉集』巻十三 3268番
みもろの 神奈備山ゆ との曇り 雨は降り来ぬ (中略)大口の 真神の原ゆ 思ひつつ 帰りにし人 家に至りきや
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/manyoshu-japan.com/10310/%3Famp%3D1%26usqp%3Dmq331AQGsAEggAID

 

三諸の神名火山と真神原がセットで出てくる。真神原から三諸山が見えるのだろう。

 

■ (崇 峻)元年 (588年)是歳、飛鳥衣縫造の家を壊 して始めて
法興寺を作る。此の地を飛鳥の真神原 と名づく。亦飛鳥の苫田と
名づ く。 『 日本書紀
https://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu1/17tanaka300-17.pdf
●(雄略)七年(463年)、是歳、天皇聞弟君不在、遣日鷹吉士堅磐固安錢堅磐、此云柯陀之波使共復命、遂卽安置於倭国吾礪廣津(廣津、此云比盧岐頭)邑。而病死者衆、由是、天皇詔大伴大連室屋、命東漢直掬、以新漢陶部高貴・鞍部堅貴・畫部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那等、遷居于上桃原・下桃原・眞神原三所。


「飛鳥の真神原」に法興寺を建てるとある。

「飛鳥の真神原」は肥前の飛鳥である。
また新漢を阿斗(吾砺)から「上桃原・下桃原・真神原」に遷したとある。

「桃原」は蘇我馬子の墓があるところ。

肥前三根郡

「桃原」も「真神原」も肥前三根郡
↑そのうち見てみたいな。

山が重なって見えるところ。

 

夕方、朝作り、冷蔵庫で冷やし固めた寒天サワークリームケーキを試食。

固まっていたので、長男宅へお届け。

ついでに買物。

帰宅するとイベントが待っていた。

多分、わいがスーパーで寄ってくるストーカー工作員達を現在罹患中の咳で蹴散らしたので、報復を考えたか。

てか、そもそも、お前らが病気(毒物)仕込んだやろ。

家に入るや猛烈な咳込みがスタート。←電磁波で可能。

息が止まりそうな、嘔吐しそうな位強烈な咳込み。

そこに昼寝してた筈の夫が起きてきて「何処行ってたの?」から始まり「(長男の家に)みんな居たの?」と質問。

こっちは発作のような咳込みで答えられず手のジェスチャーで待って、とやるも夫は「何で無視すんだよ!」とブチ切れ。

咳込みの合間に「居たよ。」と言おうとするも今度は声を出させない攻撃。

咳がやっとこさ鎮まった所で夫に返答出来なかった理由としてどんだけ苦しかったかを説明。

すると今度は「俺は皆が家に居たかどうか知りたかっただけなのに何でお前に怒られないといけないのかわからない!」と更に逆ギレし自室へ。

以上、DS連中による、分断、離間工作のやり方の一例を説明。

夫の脳味噌ハッキングして仕込んでくるから厄介。

日夜こんな事ばっか考えてる連中ですわ。

G.W返上で。

 

そのまま、夕食の用意。

基本残り物。

自分はパス。

ウォッカ梅酒ロックとツマミだけ頂く事に。

 

歩数計は4965。

充実した一日だった。