2025/4/26土曜日
7時に起床し長女の朝食と皆のカレー作り。
洗濯とベランダガーデニングの水遣りも済ませたら9時半に畑へ。
空いている畝に石灰を施し鋤き込んだ。
10時半に帰宅後、読書しようかと思っていたら夫と長女が上の孫を連れて帰宅。
一緒に遊ぶ事に。
13時過ぎに皆で昼食。
上の孫はうちの辛いカレーをハーハー言いながら食べていた。
そして、口の中の辛さを和らげる為に納豆ご飯を掻き込み、再びカレー、を繰り返していた。

カレーの中のじゃがいもが特に気に入ったようで、じゃがいものお代わりを要求。
夫に新たなライバルが誕生した。
15時に嫁がご両親と下の孫と一緒にお迎えに。
嫁のご両親とはお正月以来。
暫し談笑。
16時に帰って行った。
そのあと、本日の読書と調べ物をスタート。
3 日出処の天子と聖徳太子
(1)日出処の天子とは
『隋書』俀国伝によると、大業三年(607年)俀国は隋へ朝貢している。
大業三年(607年) 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日没處天子無恙云云 帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞
https://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/diary/201610130000/?scid=wi_blg_amp_diary_next
「日出処の天子」は聖徳太子と言われている。
が、俀国は阿毎政権である。
この翌年(608年)に隋の使者である裴世清は阿毎政権(福岡県鞍手郡)に来ている。
第2章 上宮法皇
1 上宮法皇と法興年号
(1)上宮法皇と年号
法隆寺釈迦三尊像光背銘には「法興」年号が使われている。
「法興」年号は日本の年号。上宮法皇の年号。法興元三十一年は621年であるから法興元年は591年。上宮法皇は591年に即位。
「法皇」年号は四国の伊予温泉の「伊豫温湯碑」にも使われている。
『釈日本紀』に「于時立湯岡側碑文記云」とあり、次のような碑文があった事を伝えている。
法興六年歳次丙辰、我が法王大王、恵聰法師及び葛城臣と夷与村
に逍遥 し、正に神井を観る。 (後 略)
『釈 日本紀』 (『伊豫国風土記逸文』)
https://narastagclub.jp/archive/h/8-7.pdf
法興六年丙辰年は596年であるから法興元年は591年。
法隆寺の「法興」年号と一致する。
「伊豫温湯碑」には「法王大王」とある。「大王」は「王の中の王」大王のみが年号を建てる事が出来る。
「法興年号」は法王大王の年号。
法王大王と上宮法皇は同じ法興年号を用いている。
同一人物である。
(2)法興年号
法興元年は591年である。
この時期の大和にはまだ年号は無い。
法興年号は九州年号。
九州には阿毎王権が存在。阿毎王権は552年に物部王権を敗り新王権を樹立。
◯阿毎王権の年号(『襲国偽僣考』より)
・貴楽 552-569年
・金光 570-575
・賢棲 576-580
・鏡常 581-584
・勝照 585-588
・端政 589-593
↑法興無いやないかー!
法興年号は阿毎王権とは別の王権。
552年に阿毎王権に滅ぼされた物部王権の物でも無い。
上宮法皇は591年に新王権を樹立!!
九州は阿毎王権が支配。
上宮法皇は591年に阿毎王権から独立し新王権を樹立したのか。
(3)上宮法皇の本拠地
「伊豫温湯碑」には法王大王は葛城臣を連れて夷与村(伊豫温泉)へ行ったとある。葛城臣も九州の人か。
「葛城」は地名。
2 舒明天皇と上宮皇子
(1)田村皇子と上宮皇子
舒明天皇の即位前の名は田村皇子である。田村皇子は『大安寺伽藍縁起井流記資財帳』(以下『大安寺縁起』と略)に次のように出てくる。
初 め飛鳥岡基 (お かもと)宮御宇天皇の未だ極位 に登 らざるとき、号 して 田村皇子 とい う。 (中 略)(田 村)皇子、私に飽波に参 り、御病状 を問 う。 ここに於いて上宮皇子命、田村皇子に謂いて曰く、
「愛わ しきかな。善かな。汝、姪男。 自ら来た り吾が病 を問 うや。……」 (中 略)
天皇、臨崩 の 日に、田村皇子を召 して遺詔す。 「朕、病篤 し。今、汝、極位 に登れ。宝位 を授 け上宮皇子 と朕の黒凝寺を譲 る。例 りて天皇位 に即 く。
『 大安寺縁起』
https://narastagclub.jp/archive/h/8-7.pdf
『大安寺縁起』によると、十一年己亥(639年)に百済大寺を建てたとある。
上宮皇子は田村皇子を「汝、姪男」と呼んでいる。
上宮皇子の姪は宝皇女であろう。
舒明天皇は宝皇女を皇后にして葛城皇子(後の天智天皇)を生んでいる。
そして、宝皇女の父(X皇子)は上宮皇子と兄弟で、天皇に即位。
臨終の日に田村皇子を召して遺詔。
「朕、病篤し。今、汝、極位に登れ。宝位を授け上宮皇子と朕の熊凝寺を譲る」例りて天皇位に即く、とある。
田村皇子は即位して舒明天皇となる。
(2)舒明天皇と肥前
舒明天皇は百済川の側に大宮と大寺を建立。
そこを「宮處」と為す。
百済川は神埼郡を流れる城原川である。
舒明天皇は「百済宮に崩ず」とある。
后は宝皇女。
宝皇女の伯父は上宮皇子。
舒明天皇は上宮皇子の病気見舞いをしている。
上宮皇子やX皇子、宝皇女は肥前の人。
(3)舒明天皇と伊豫温泉
田村皇子は629年に即位して舒明天皇に。639年に伊豫温泉に行っている。
王位を継いだ舒明天皇は伊豫温泉へ行き上宮法皇が王権を樹立した時の喜びを体験する為に行った。
3 厩戸皇子と上宮皇子
(1)厩戸皇子
日本書紀によると、厩戸皇子は「宮の南の上殿」に住んで居たから「上宮厩戸豊聡耳太子」と言われているそう。
厩戸皇子は上宮法皇の皇子なのてはないか。
(2)来目皇子
厩戸皇子の弟。
日本書紀によると、602年に筑紫の嶋郡(筑前国志摩郡)に来て兵粮を集めている時に病気になり翌603年に死去。
『風土記』にも登場する。
それによると、忍海の漢人に兵器を造らせたとある。
『忍海の漢人』は肥前の人。
阿知使主が喚んで渡来した漢人に「忍海村主』が居る。
「忍海村主」は渡来して肥前に住んでいる。
「忍海の漢人」は「忍海村主」の子孫であろう。
葛城襲津彦が新羅から連れて来た俘人を三根郡葛木の「桑原・佐靡・高宮・忍海」に安置している。
肥前の三根郡には上宮法皇が王権を樹立。厩戸皇子は「上宮厩戸豊聡耳太子」であり「上宮」で育ったとある。
「上宮」は上宮法皇の「上宮」であろう。厩戸皇子は上宮法皇の「太子」ではないたろうか。
『扶桑略記』は厩戸皇子を「上宮太子」と書いている。
●(敏達)八年己亥(579年)十月、新羅国より釈迦仏像を献じ送る。厩戸皇子(上宮太子也)を奏して曰く、「末世は之を尊う。(後略)」と。
●(推古)元年(593年)四月、天皇、之(厩戸皇子)を愛す。宮の南に居らしむ。上宮太子と称す。『扶桑略記』
◯上宮王家の人々の死去年月日
●上宮法皇 622年2月22日
●厩戸皇子 621年2月5日
●来目皇子 603年2月4日
上宮太子の方が上宮法皇より先に死去。
長男と次男は既に死去しているので恐らく三男の殖栗皇子が王位を継いだか。
その次は娘婿の田村皇子が舒明天皇として即位した、と。
↑上宮法皇の長男の上宮太子が病気の時に、姪の宝皇女の婿の舒明天皇(田村皇子)が見舞いに来た、と。
本当なら上宮太子が皇太子なので上宮法皇の崩御後、上宮太子が跡を継ぐ予定が、法皇より先に死んでしまったので、姪男の舒明天皇が即位した、と。
めっちゃわかり易い説明で理解出来た。
今日はここまで。
このあと18時から夕食作り。
19時から昨夜以来の食事を食べる予定。
予定ではカレーと納豆、味噌汁、サラダ。
後は残り物。
ウォッカ梅酒ロックとローストナッツと共に頂く事に。
一日一食にはもう慣れた。
昼に食べたいと思わなくなった。
特に運動しない日はこれでええ。
時間まで読書と調べ物をする事に。
歩数計は6095。
充実した一日だった。