2025/4/25金曜日
5時半に起床し子供らの朝食作り。
洗濯とベランダガーデニングの水遣りを済ませたら、9時に買物へ。
11時に帰宅後、食材を仕分け。
そのまま夫の昼食を用意。
11時半から、読書と調べ物。
この方の本を読み始めてから、夢中になって読んでいる。
何せ論理的。
基本、起承転結の書き方。
これとこれとこの史実があるから、こうだ、と来る。
もう、納得するしかないやん!みたいな書き方。
経歴を見たら、東京理科大学卒で、バリパリの理系。
何故そのような方が史学を?と思うが出身は阿蘇山のある熊本県。
阿蘇山と言えば『隋書』俀国伝にも登場する位、日本を代表する高山だからな。
俀国を訪れた裴世清が阿蘇山の事を書いているのに、何で、俀国は九州以外の場所やねん!て思うわな。
そんな佃氏は1939年生まれ。
闇の勢力が彼を抹殺しようとテクノロジー兵器で攻撃をしていないかと非常に心配。
無事を祈りながら読書を進める事に。
(3)「勝照三年」
『肥前叢書』に引用された『遊方各所略』は「九州年号」で書かれている。
「勝照」は阿毎王権の十五世物部大人連公(押坂彦人大兄皇子)の年号である。
『遊方各所略』も昔の記録から引用しているのであろう。
阿毎王権の事件を阿毎王権の年号を使って記述している記録があったのである。
6 仏教伝来
(1)「仏教伝来」の二説
「仏教伝来」には二説ある。
「552年説」と「538年説」
552年説は『日本書紀』の次の記事による。
(欽明)十三年冬十月。 百濟聖明王【更名聖王】、 遣西部姬氏 達率怒唎斯致契等、 獻釋迦佛金銅像一軀 幡蓋若干 經論若干卷。 (中略)天皇聞已、歡喜踊躍、 詔使者云 「朕從昔來、 未曾得聞如是微妙之法。 然朕不自決。」 (中略)天皇曰 「宜付情願人稻目宿禰 試令禮拜。」大臣跪受而忻悅。 安置小墾田家、 (中略)淨捨向原家、爲寺。『日本書紀』
552年10月に百済の聖明王は阿毎王権の樹立を祝し仏像や経典を献上。
蘇我稲目はそれを受け取り悦び小墾田の家に安置。
向原の家を浄め寺と為すとある。
これが仏教受容の始まりであると言う552年説の根拠。
538年説は『元興寺伽藍縁起並びに流記資財帳』(以下『元興寺縁起』)
大倭國佛法 創レ自下斯歸嶋宮治二天下一天國案春岐廣庭天皇御世上 蘇我大臣稻目宿禰仕奉時 治二天下一七年歳次戊午十二月度來
百濟國聖明王時 太子像幷灌佛之器一具及説佛起書卷一筐度。而言「當聞 佛法旣是世間無上之法 其國亦應二修行一也」〔言〕 時天皇受而諸臣等 告「此自二他國一送度之物可レ用耶 不レ要耶 善計可レ白」告
時餘臣等白「我等国物 天社國社一百八十神一所禮奉 我等國神御心恐 故他國神不レ可二禮拜一白 但曽蘇我大臣稻目宿禰獨白 他國爲レ貴物 我等國亦爲レ貴可レ宜」白 爾時天皇卽大臣告「何處置可レ禮」〔告〕 大臣白「大々王後宮分奉家定レ資可レ宜」白 『元興寺伽藍縁起並びに流記資財帳』
「斯歸嶋宮治二天下一天國案春岐廣庭天皇」は欽明天皇。
大倭国(日本)の仏法の始めは欽明天皇の御世。
蘇我稲目が仕えている時の「治天下七年歳次戊午十二月」に伝えられた。
「歳次戊午」は538年である。
『上宮聖徳法王帝説』にも「戊午年」とある。
志癸島天皇の御世。戊午年十一月十二日、百済国主明王、始めて仏像・経教並びに僧等を度らせ奉る。『上宮聖徳法王帝説』
「志癸島天皇」は欽明天皇。欽明天皇の御世の「戊午年(538年)」に百済の(聖)明王が「始めて像・経教並びに僧等」を贈ったとある。
552年より前の538年に百済から僧が来ているので552年は誤りである。
547には百済から僧が7人も来ている。百済が日本に救援を求める見返りとして送られて来ている。
(3)「戊午年」と物部王権
問題は欽明天皇の在位期間に「戊午年」が無い事。
Wikiによると6世紀の戊午年は538年と598年。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E5%8D%88
↑60年に1回しか来ないからね。
◯欽明天皇の在位
●戊午 538年 (宣化)三年
●己未 539年 (宣化)四年
●癸申 540年 (欽明)元年 欽明天皇即位
●辛卯 571年 (欽明)三十二年 欽明天皇崩御
「治天下七年歳次戊午」は「欽明天皇の世」ではない。
著者によると、該当するのは物部麁鹿火。531年の「磐井の乱」で新王権を樹立し七年目が538年。
(4)「仏教伝来」の新説
「仏教伝来」は「538年説」が正しい。ところがそれ以前にも仏教は日本に伝来。『襲国偽僣考』の「九州年号」に「僧聴」年号がある。
◯僧聴
宣化天皇元年、丙辰。僧聴元年と改む。一説に曰く、宣化帝の時、僧聴四年に終わる。欽明天皇元年、かれが僧聴五年。
『襲国偽僣考』
よって、仏教伝来は「僧聴」と年号を改めた物部麁鹿火の時代で僧聴以前の531-536年とする。
(1)厩戸皇子とは
厩戸皇子は用明天皇皇子で聖徳太子とも言われる。
(2)厩戸皇子と斑鳩
『日本書紀』によると皇太子(厩戸皇子)は601 年に奈良県の斑鳩に宮殿を建てて605年に移り住む。
(3)厩戸皇子と仏教
厩戸皇子は高麗の僧に仏教を学ぶ。
『上宮聖徳法王帝説』によると聖徳太子は四天王寺・法隆寺・中宮寺・橘寺・蜂丘寺(川勝秦公に賜う)・池後寺・葛木寺(葛木臣に賜う)等の七寺を建立したとある。例えば法隆寺を建立したのは厩戸皇子ではない(後述)
(4)上宮王家
厩戸皇子は前述の通り「上宮皇太子」、「上宮豊聡耳皇子」と言われている。
其の為、厩戸皇子一族を「上宮王家」と呼んでいる。
法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼 前太后崩。明年正月廿二日、上宮法 皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾、並 著於床。時王后王子等、及與諸臣、深 懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋 像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安 住世間。若是定業、以背世者、往登浄 土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后 即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中、 如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴 具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠、 出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共 彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、 同趣菩提。使司馬鞍首ふ止利佛師造。 — 『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』

(2)上宮法皇とは
上宮法皇とは「王」である。
上宮法皇の母の「鬼前太后」の「太后」とは王の母を言う。
また「干食王后」「王后」とある。
「王后」は王の后(皇后)である。
「太后」「王后」は上宮法皇が「王」である事を示している。
聖徳太子は終生太子である。
王位に就いた事は無い。
聖徳太子は「太子」であるから法隆寺釈迦三尊像の光背銘にある「上宮法皇」は聖徳太子ではない。
光背銘によると
上宮法皇の崩御年月日は622年2月22日。
『日本書紀』にると厩戸皇子の崩御年月日は621年2月5日。
よって、2人は同一人物では無い。
が、上述のように検証して行けば、誤りだとわかる。
素晴らしいね。
この誤りを指摘した人は何人も居る。
この本が一番わかり易い。
今日はここまで。
18時半から夕食作り。

鰹の塩たたき、サラダ、ローストナッツ、納豆、大根の葉と生姜の炒め煮、味噌汁、ウォッカ梅酒ロック。
19時から昨夜以来の食事。
良く呑み良く食べた。
この時、夫とスマートウォッチの話題に。
夫はジョギングに行ったので今日は一万歩を超えた、と。
自分もスマートウォッチを見ると、一万歩を超えていた。
おかしいな、今日は買物しか行っていない。
夫に歩数を一桁の数字まで聞くと、見事に一致。
自分のスマートウォッチの歩数は夫の歩数だった。
夫に調べてもらうと、機種はきちんと自分のに設定されている。
が、何故かアカウントが夫のになっていたそうだ。
そのまま、設定のし直しをしてもらった。
リセットされたので自分の歩数は今日は無し。
歩数は無くても充実した一日だった。