arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1324日目と畑と阿毎王権⑨

2025/4/24木曜日

5時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。

合間に洗濯とベランダガーデニングの水遣り。

レモンが開花していた。

8時半に畑へ。

野菜達は元気に育っていた。

ベランダから移植したトマトは少しずつ赤くなっていた。

ノーケアで冬を越した越冬トマト。

朝晩の寒さにも耐えている。

玉ねぎやネギ、スイスチャード、レタス、春菊、コカブ等を収穫。

そのままスーパーで買い物してから10時半に帰宅。

買ってきた食パンで夫の昼食のサンドイッチ作り。

これで、自分は夕方までフリー。

早速読書と調べ物。

昨日に引き続き、佃收著「物部氏蘇我氏と上宮王家」

 

4/24アップ分
(5)押坂彦人大兄皇子
日本書紀』は続いて次のように書いている。

 

中臣勝海連、於家集衆隨助大連。 遂作太子彥人皇子像與竹田皇子像、厭之。 俄而知事難濟、 歸附彥人皇子於水派宮。 【水派、此云美麻多。】 舍人迹見赤檮、伺勝海連自彥人皇子所退、 拔刀而殺。 【迹見姓也。赤檮名也。 赤檮、此云伊知毗。】『日本書紀

 

中臣勝海は兵を集めて物部守屋を助けて戦おうとする。

しかし勝つ見込みが無いとこを知り寝返る。

「水派宮に於いて彦人皇子に帰附す」とある。

しかし、水派宮を出たところを迹見赤檮(とみのいちひ)に襲われて殺される。

人皇子は押坂彦人大兄皇子である。

敏達天皇と皇后広姫を両親に持つ。

押坂彦人大兄皇子は「大兄」なので太子になる資格を持つ。
ここにも「太子彦人皇子の像を作り」とある。

押坂彦人大兄皇子は太子になっている。

中臣勝海は最初は物部守屋に味方するが寝返って太子の押坂彦人大兄皇子の方についている。
この事件は阿毎王権の出来事である。

(用明)二年(587年)であるから阿毎王権の天皇は十五世物部大人連公。

「太子彦人皇子(押坂彦人大兄皇子)」は十五世物部大人連公の太子。
十五世物部大人連公も敏達天皇(十四世大市御狩連公)の子である。

敏達天皇(十四世大市御狩連公)が死去して即位したのは十五世物部大人連公。

よって、十五世物部大人連公は太子の押坂彦人大兄皇子ではなかろうか。
阿毎王権には「押坂部史毛」という人も居る。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%BC%E5%9D%82%E9%83%A8%E6%AF%9B%E5%B1%8E

 

阿毎王権の本拠地に「押坂」という地名があるのだろう。


(6)十六世物部耳連公と茅渟王
旧事本紀』は十六世物部耳連公は十五世物部大人連公の子と書いている。

 

十五世物部大人連公 御狩大連公の子なり
十六世物部耳連公 今木連等の祖。大人連公の子なり。『旧事本紀


日本書紀』は皇極天皇の出自を次のように書いている。

 

(皇極)即位前紀、天豊財重日足姫天皇皇極天皇)は渟中倉太珠敷天皇(ビタッと)の曾孫、押坂彦人大兄皇子の孫、茅渟王の女なり。母は吉備姫王という。

日本書紀

 

皇極天皇敏達天皇の曾孫であり、押坂彦人大兄皇子の孫であり、茅渟王の娘であるという。
茅渟王押坂彦人大兄皇子の子。

押坂彦人大兄皇子は十五世物部大人連公。茅渟王は十六世物部耳連公であろう。

或いはその兄弟、
阿毎王権の王統は次のようになる。


◯阿毎王権の王統
●初代 十三世物部尾輿
●二代目 十四世大市御狩連公=敏達天皇
●三代目 十五世物部大人連公=押坂彦人大兄皇子
●四代目 十六世物部耳連公=茅渟王(またはその兄弟)


5 「蘇我氏物部氏の争い」の真相
(1)蘇我馬子物部守屋の争い
(用明)二年(587年)四月に物部守屋は群臣に殺されそうになり阿都(阿斗)へ退く。
蘇我馬子はそれを大伴毘羅夫に伝える。

大伴毘羅夫は、昼夜蘇我馬子を守護したという。

この事件の3ヶ月後、物部守屋蘇我馬子に伐たれる。
阿毎王権の重臣である蘇我馬子は諸皇子や群臣に物部守屋を滅ぼす事を勧めている。諸皇子の中に厩戸皇子聖徳太子)も居る。

厩戸皇子は額に髪を束ねて軍の後ろに随う」とある。
これにより物部氏は滅びたと言われている。

しかしそれは誤りである。

阿毎王権は滅びていない。

阿毎王権はその13年後の600年に隋へ朝貢

607年にも再び隋へ朝貢

その国書に有名な「日出処天子」と書いている。
隋王朝も阿毎王権を認めており608年には隋から裴世清が来ている。

このように、蘇我馬子による物部守屋討伐で物部氏は滅びたのではない。

従来の説は誤りである。
この事件は蘇我氏物部氏による「仏教受容の争い」と言われている。

しかし、それも誤りである。

物部守屋は阿毎王権の天皇に横柄な口を利き阿毎王権の統率を乱した人物。

討伐メンバーは肥前筑前の人々。

全て北部九州の人。
物部守屋を伐ったのは阿毎王権。

この事件は阿毎王権内部の争い。

 

(2)物部守屋の子孫
物部守屋討伐で一族は絶えたと言われている。
が、『肥前叢書』第一輯(青湖社)に次の記述がある。

 

 (一)勝照二年(用明天皇) 勅シテ、逆臣守屋ノ子、辰孤連ヲ松浦ニ配流ス。〔『肥前旧事』巻一、南里店易(後名有鄰)編。糸山貞幹、増訂〕 (二)勝照二年丁未(用明天皇) 丁未ハ即位ノ二年、聖徳太子、誅守屋畢、其余党宥免寛死刑、即定遠流・・・・。

〔『遊方名所略』〕(丁未は三年)

 

物部守屋が討伐された時、次男は筑紫の鞍手郡に配流。

四男の辰孤連は肥前の松浦に配流された。
旧事本紀』にも物部守屋の子が出てくる。

 

●十五世孫物部大人連公 御狩大連の子
・弟物部目連公
・孫内大紫冠位物部雄君連公 守屋大連の子


此の連公は飛鳥浄御原宮御宇天皇の御世に内大紫冠位を賜り、神宮に斎(いつき)を奉る。物部目大連の女豊媛を妻と為し二児を生む。『旧事本紀

「内大紫冠位物部雄君連公」は物部守屋の子
飛鳥浄御原宮御宇天皇の御世」は天武天皇
日本書紀』によると物部雄君連公は(天武)五年(676年)六月に死去としている。
物部守屋が殺されたのは587年。

この間、100年ある。

3世代から4世代の開きがあると思われる。物部雄君が物部守屋の子と言うのは間違いであろう。

物部守屋の子孫である事は間違いないであろう。
物部守屋の後を継いだのは次男の片野田連。

その子か孫が物部雄君ではないだろうか。物部守屋の一族は存続し「壬申の乱」で活躍している。

今日はここまで。

 

17時半から夕食作り。

19時に昨夜以来の食事。

焼き芋、メカジキと鶏の醪漬け、玉ねぎサラダ、ネギと大根葉の味噌汁、昨日の残りのチキンビーンズ、大根葉と生姜の炒め煮、ビーツの即席漬け、朝の残り、ウォッカ梅酒ロック。

これに定番の納豆もプラス。

自分が一日一食になってからおかずの減り方が激減。

残り物が半端ないので作り過ぎないよう注意している。

食費が節約されて助かる。

このあと19時から昨夜以来の食事をする事に。

 

歩数計は6438。

充実した一日だった。