2025/4/23水曜日
5時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。
雨予報なので洗濯は中干しに。
ベランダの水遣りはお休み。
7時50分に子供等を駅まで送迎。
9時過ぎに病院を受診する嫁と孫達を車に乗せお出かけ。
嫁を病院で降ろしたら近くの支援センターへ。
そこで12時まで孫達と遊んだ。
嫁をピックアップし家まで送り届けたら、図書館で本をゲットしてから帰宅。
ここで、ザーザーの雨。
着替えてから夫の昼食のラーメン作り。
自分は食べないので自室へ。
読書と調べ物をする事に。
(3)物部氏と天孫降臨
物部氏の姓は「天」である。「天(あめ)」は天孫降臨をした天族の姓。
天族は「安冕辰沄氏」であり中国の呉地方から渤海沿岸をまわり朝鮮半島を経て日本列島へ渡来。(古代史の復元①『倭人のルーツと渤海沿岸』参照)
物部氏は「天孫降臨」の時、従者として日本に渡来。
物部氏も「姓は阿毎(天)」である。
「安冕(あめ)辰沄氏」であろう。
天族と一緒に中国の呉地方から渤海沿岸をまわり、朝鮮半島を経て日本列島へ渡来。
物部王権も同じ物部氏。
秦王国として存続している。
『隋書』は秦王国の人について次のように書いている。
又東至秦王国。其人同於華夏。以為夷州、疑不能明也。 『隋書』
(訳)又東秦王国に至る。其人華夏(中国)に同じ。以て夷州と為すも疑うらくは明らかにすることあたわずなり。
秦王国の人は「華夏(中国)に同じ」とある。
「恐らく中国の夷州(東夷)の人であろう」という意味。
天族(物部氏)は中国の呉地方から渡来したという私の説を裏付けるものである。
(5)阿毎王権の王墓(物部尾輿の墓)
鞍手郡鞍手町に新延(にのぶ)大塚古墳がある。
製造時期は6世紀後半。
鞍手地方では最大規模の石室で巨石を用いている。
例えば奥室の東壁の巨石は長さ3.5m、高さ2.2mの壁面を作るが、石そのものとしては長さが4m,高さ2.5m、奥行は平均0.8m。
『隋書』俀国伝に次の記事がある。
●漆皮為甲(皮に漆を塗って甲と為す)『隋書』俀国伝
俀国(阿毎王権)の甲冑は皮に漆を塗って作るとある。
その通りの遺物が新延大塚古墳や銀冠塚古墳等の阿毎王権の王墓から出土。
よって、『隋書』の俀国は鞍手郡の阿毎王権である。
4 阿毎王権の王統
(1)阿毎王権の二代目
●初代 十三世物部尾輿 貴楽(552-569年)
●二代目 十四世大市御狩連公 金光(570-575年)
『日本書紀』に物部尾輿は登場するが二代目の十四世大市御狩連公は登場しない。
初代の物部尾輿も王位に就いた事や王権を樹立した事を隠蔽。
十四世大市御狩連公の弟。
物部守屋は阿毎王権の人である。
『日本書紀』の(敏達)十四年(585年)三月から突如登場。
(敏達)三月丁巳朔、物部弓削守屋大連與中臣勝海大夫、奏曰「何故不肯用臣言。自考天皇及於陛下、疫疾流行、国民可絶。豈非專由蘇我臣之興行佛法歟。」詔曰「灼然、宜斷佛法。」丙戌、物部弓削守屋大連自詣於寺、踞坐胡床、斫倒其塔、縱火燔之、幷燒佛像與佛殿。既而取所燒餘佛像、令棄難波堀江。
https://nihonsinwa.com/page/1753.html
物部守屋はここで天皇に横柄な態度を取っている。
なぜであろうか。
阿毎王権の系図と年号によると、物部守屋が横柄な口を利いた585年の前年の584年に『鏡常』年号が終わっている。
兄の十四世大市御狩連公に横柄な口は利けないだろう。
その兄が亡くなり兄の子で物部守屋の甥である十五世物部大人が即位。
恐らく、甥に対し横柄な口を利いている。
◯阿毎王権の年号
・十四世大市御狩連公
*金光 570-575年
*賢棲 576-580
*鏡常 581-584
・十五世物部大人連公
勝照 585-588
それで甥の十五世物部大人連公に横柄な口を利いて困らせている。
(3)十四世大市御狩連公と敏達天皇
『日本書紀』の敏達天皇在位は572-585年。
(敏達)十二年(583年)に日羅の事件がある。敏達天皇の時代である。
日羅は百済から阿毎王権へ来ている。この時の阿毎王権の天皇は十四世大市御狩」)
十四世大市御狩連公の在位は570-584年であり敏達天皇の在位に近い。
『古事記』には敏達天皇の崩年干支がある。
「甲辰年四月六日崩」とある。
甲辰年は584年。
『古事記』の敏達天皇の崩年は『襲国偽僭考』の九州年号(「鏡常」年号)と一致。
敏達天皇の本来の名前は『古事記』では沼名倉太珠敷命、『日本書紀』では渟中倉太珠敷天皇。
共に同じ名前である。
であれば『古事記』の崩年干支が正しい。敏達天皇の崩年は584年。
更に、敏達天皇の崩年は「襲国偽僭考」の九州年号「鏡常」年号と一致。
「鏡常」年号は十四世大市御狩連公の年号。
敏達天皇は阿毎王権の十四世大市御狩連公であろう。
『日本書紀』は阿毎王権を抹殺。
物部守屋の横柄な態度は更に増大。
二年夏四月乙巳朔丙午。 御新嘗於磐余河上。 是日、天皇得病還入於宮、 群臣侍焉。 天皇詔群臣曰 「朕思欲歸三寶、卿等議之。」 群臣入朝而議。
物部守屋大連與中臣勝海連、 違詔議曰 「何背國神、敬他神也。 由來不識若斯事矣。」 蘇我馬子宿禰大臣曰 「可隨詔而奉助、詎生異計。」 於是、皇弟皇子 【皇弟皇子者、穴穗部皇子、 卽天皇庶弟】 引豐國法師【闕名也】入於內裏。 物部守屋大連、耶睨大怒。
是時、押坂部史毛屎、 急來、密語大連曰 「今、群臣圖卿、復將斷路。」 大連聞之卽退於阿都 【阿都大連之別業所在地名也】 集聚人焉。
天皇は「仏教に帰依したいと思う。皆で協議してくれ」と言う。物部守屋大連と中臣勝海連は反対する。皇弟皇子(天皇の弟)は天皇が仏教に帰依したいと言うので豊国法師を内裏に入れる。すると物部守屋は大いに怒った。天皇が帰依したいというのに強く反対。
しかし物部守屋が登場。
阿毎王権の出来事である。
587年であるから天皇は物部守屋の甥の十五世物部大人連公である。
押坂部史毛屎が飛んで来て密かに言う「群臣が物部守屋を殺そうとしている。
また道を塞ごうとしている。」
物部守屋は急いで阿都に退き戦う為に人を集めた。
阿都は「阿斗」であり飯塚市。
『日本書紀』は阿毎王権を抹殺しているので阿毎王権の出来事を「用明紀」として書いている。
「用明紀」は用明天皇の記録てはない。
阿毎王権の記録である。
↑わいは日本書紀で上述のように「阿都」という単語を発見した際、これは九州の話だな、と確信した。
「阿都」は「阿斗」。
あの、百済から召喚した日羅が滞在した「阿斗」やー。
今日はここまで。
17時から夕食の用意。
18時に昨夜以来の食事。

残り物の煮物、納豆、朝のお弁当のおかずの残り、玉ねぎエビサラダ、玄米ご飯、味噌汁、ローストナッツ、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
読書と調べ物をしてから寝る事に。
歩数計は7307。
充実した一日だった。