2025/4/22火曜日
6時に起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。
洗濯とベランダガーデニングの水遣り。
やる事やったら読書と調べ物。
2 物部王権と秦王国
(1)物部王権と阿毎王権の関係
552年に物部王権は阿毎王権に滅ぼされる。
しかし、完全に滅亡したわけではなく物部王権は王権交代後も阿毎王権と関係を持っている。
百済から物部王権に人質が来ているが、その人質は阿毎王権に引き継がれている。
阿毎王権と物部王権が完全に対立した関係で無いことは遺跡からもわかる。
物部王権の本拠地である嘉穂郡桂川町付近では大きな古墳がその後も造り続けられる。
桂川王塚古墳の横に天神山古墳・寺山古墳が造られる。
物部王権は存続。
(2)秦王国
『隋書』によると筑紫国の東に秦王国がある。
明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
https://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm
筑紫国の東に秦王国があり、更にその東には「又十餘国を経て海岸に達す」とある。「十餘国」とは筑前と豊前の屯倉であろう。
(安閑)二年(535年)に筑前と豊前に屯倉が設置されている。
五月丙午朔甲寅。 置筑紫穗波屯倉 鎌屯倉。 豐國碕屯倉 桑原屯倉 肝等屯倉【取音讀】 大拔屯倉 我鹿屯倉【我鹿、此云阿柯】(後略)を設ける。『日本書紀』
これらの屯倉が608年の『隋書』では「十餘国」になっているのであろう。
「秦王国」は筑前や豊前の屯倉よりも手前にある。
そこは物部王権の本拠地である嘉穂郡桂川町付近ではないだろうか。
「秦王国」は物部王権であろう。「秦王国」とあるように「王」が居るのであろう。
物部王権は552年に阿毎王権に王権を奪われるがその後は「秦王国」として存続した。

十三年春三月、 狹穗彥玄孫齒田根命、竊姧采女山邊小嶋子。 天皇聞、以齒田根命、收付於物部目大連而使責讓。 齒田根命、以馬八匹大刀八口、秡除罪過、 既而歌曰。『日本書紀』
http://himiko-y.com/scrp2/d21yuu03.html
(雄略)十三年(469年)三月、狭穂彦の玄孫歯田根命、密かに采女(うねめ)の山辺小嶋子を犯すが反省の色が無いので倭王興は土地を取り上げ物部目大連に賜うとある。倭の五王時代に物部目大連は筑紫君(倭王)の重臣である。
「雄略紀」は筑紫君王朝の記録。
筑紫君は倭王。
469年の天皇は倭王興。(古代史の復元⑤『倭の五王と磐井の乱』参照)
また、次のような出来事がある。
十八年秋八月己亥朔戊申。 遣物部菟代宿禰物部目連、 以伐伊勢朝日郎。(中略)物部目連、自執大刀、 使筑紫聞物部大斧手、執楯叱於軍中、倶進。 朝日郎、乃遙見而射穿大斧手楯二重甲、 幷入身肉一寸。 大斧手、以楯翳物部目連、々々卽獲朝日郎斬之。(中略)
天皇問侍臣曰「菟代宿禰、何不服命。」 爰有讚岐田蟲別、進而奏曰 「菟代宿禰怯也、 二日一夜之間、不能擒執朝日郎。 而物部目連、 率筑紫聞物部大斧手、獲斬朝日郎矣。」 天皇聞之怒、 輙奪菟代宿禰所有猪名部、賜物部目連。『日本書紀』
http://himiko-y.com/scrp2/d21yuu04.html
北部九州を本拠地にしている。
筑紫聞物部大斧手の「聞」は『和名抄』の豊前国企救(きく)郡である。
今の北九州市。
天皇は筑紫君。
全て北部九州の人。
これは北部九州の話。
「伊勢の朝日郎」の「伊勢」は「伊都国」であろう。
「伊勢の朝日郎」とは福岡県前原市の朝日郎。
筑紫君の命令で物部氏が伊都国の朝日郎を伐った事件。
物部目大連はここでも手柄を立て筑紫君から土地を賜っている。
その孫の物部尾輿も筑紫君王朝の臣下だったか。
ところが、531年の「磐井の乱」で筑紫君王朝は滅びる。
北部九州は物部麁鹿火が支配するように。物部尾輿は物部麁鹿火に鞍手郡や筑前の土地を献上し、その臣下に。
物部麁鹿火の伯父の十二世物部木蓮子も娘の宅媛と難波屯倉を献上。
2 物部氏の王権交代
(1)『旧事本紀』と物部麁鹿火
『旧事本紀』は物部氏が書いた物部氏の歴史書であると言われている。
なのに、物部氏の中で最初に天子になった物部麁鹿火の肩書は「連」。
「大連」でさえない。
何故だろうか。
(2)王統の交代
上記の歴史書によると、物部氏の首長は物部麁鹿火の系統から物部尾輿の系統に代わっている。
そして、物部尾輿が十三世となって物部氏の首長になっている。
物部麁鹿火が樹立した「物部王権」は552年に滅亡。
新しく阿毎王権が成立。
物部氏の中では首長が物部麁鹿火から物部尾輿に。
そして、十三世になっている。
物部尾輿が「物部王権」を滅ぼし、阿毎王権を樹立したのでは、と考える。
『旧字本紀』は物部氏の歴史書たが、物部尾輿系統が書いたのでは。
(欽明)十三年十月、百済から阿毎王権樹立のお祝いに仏像等が献上された時、天皇は仏教を受容するかどうか、群臣に問うている。
ここで、蘇我稲目が受容するよう勧めたのに対し、物部尾輿は仏教を受け入れると国津神の怒りを受けるだろうと奏上。
ということは、物部尾輿はこの時点では天皇の臣下。
3 阿毎王権の本拠地
(1)物部尾輿の本拠地
物部尾輿は安閑元年(復元531年)に「十市郡、伊勢国の来狭狭・登伊の贄土師部、筑紫国の膽狭山部」を物部麁鹿火に献上。
『和名抄』の筑前国鞍手郡に「十市」がある。
筑前国鞍手郡 金生(加奈布)・ニ田(布田田)・生見(伊無美)・十市(止布知)・新分(爾比岐多)・粥田(加都多)『和名抄』
一方、『隋書』や『日本書紀』の裴世清の来日記事から阿毎王権の本拠地は筑前の鞍手郡であろうと確定した。
物部尾輿の本拠地と阿毎王権の本拠地は一致。
物部尾輿は552年に阿毎王権の天子になっている。
阿毎王権の本拠地の手前に「阿斗」がある。
「阿斗」は飯塚市と推定。
(2)物部氏と「天(阿毎)」
鞍手郡は昔から物部氏が住んでいたと言われる。
『旧事本紀』(天神本紀)には種々の物部氏が登場。
「天孫降臨」の時、物部氏は天族に仕えて渡来したという。
●五部の人を副えて従と為し、天降り供奉。
物部造等の祖 天津麻良
笠縫部等の祖 天曽蘇
為奈部等の祖 天津赤占
十市部首の祖 富々侶
筑紫弦田物部等の祖 天津赤星
●五部の造(みやっこ)は伴領と為し、天つ物部を率いて天降り供奉る。
ニ田造
大庭造
舎人造
勇蘇造
坂戸造
●天つ物部等二十五人。同じく兵仗を帯びて天降り供奉る。
ニ田物部、当麻物部、鳥見物部、(中略)、赤間物部、(中略)、筑紫聞物部、播磨物部、筑紫贄田物部
『先代旧事本紀』
これらの人々は「天降り」来るという。「天」は朝鮮半島。朝鮮半島からの渡来人。
「赤間物部」は福岡県宗像市赤間。
鞍手郡の隣。
「筑紫聞物部」は(雄略)十八年(474年)に登場した筑紫聞物部大斧手の祖先であろう。
北九州市に住み着いている。
これらの物部氏を「天つ物部」と記述。「天」は「阿毎」であろう。
『隋書』に「俀王の姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞彌と号す」とある。
俀国(阿毎王権)は物部氏の王国である。『隋書』の「俀王の姓は阿毎」は「天つ物部」の「天(阿毎)」である。
◯「天(あま)」=「阿毎(あま)」(3)
「天(あめ)」は天孫降臨をした天族の姓。
天族は「安冕辰沄氏」であり中国の呉地方から渤海沿岸をまわり朝鮮半島を経て日本列島へ渡来。(古代史の復元①『倭人のルーツと渤海沿岸』参照)
物部氏は「天孫降臨」の時、従者として日本に渡来。
物部氏も「姓は阿毎(天)」である。
「安冕(あめ)辰沄氏」であろう。
天族と一緒に中国の呉地方から渤海沿岸をまわり、朝鮮半島を経て日本列島へ渡来。
物部王権も同じ物部氏。
秦王国として存続している。
『隋書』は秦王国の人について次のように書いている。
又東至秦王国。其人同於華夏。以為夷州、疑不能明也
『隋書』
(訳)又東秦王国に至る。其人華夏(中国)に同じ。以て夷州と為すも疑うらくは明らかにすることあたわずなり。
秦王国の人は「華夏(中国)に同じ」とある。
「恐らく中国の夷州(東夷)の人であろう」という意味。
天族(物部氏)は中国の呉地方から渡来したという私の説を裏付けるものである。
↑物部氏も渡来人だったのには正直驚いた。
つまり、饒速日も背乗りされたて言う事?
わいは、飛騨政権は日本古来の人々だと思っているが。
「日抱きの御霊鎮め」とか、大陸出身の渡来人には到底真似出来ない、理解出来ないやろ。
縄文人は馬に乗る文化も無かったし。
6世紀頃から九州は大変な事になっていた、ということはわかった。
14時に職安から帰ってきた夫に昼食のラーメンを調理。
二玉を所望された(笑)
午後も読書と調べ物。
17時から夕食を準備。
18時から昨夜以来の食事。

鯖、鶏とあまえんどうのケチャップ炒め、サラダ、納豆、玄米ご飯、残り物の煮物、味噌汁、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物の続きをする事に。
歩数計は7628。
外に一歩も出てないのに、またハイスコア。
充実した一日だった。