2025/4/21月曜日
3時半に覚醒。
そのまま起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。
日の出を迎えた5時過ぎに畑へ。
まずは収穫。
このところの陽気で野菜達は次々と蕾を付け開花宣言。
慌てて、ビーツ、大根、コカブ、キャベツ、玉ねぎ、あまえんどう等を収穫。

帰りはリュック2つを背負っての帰宅となった。
6時に帰宅後、シャワーと洗濯、ベランダガーデニングの水遣り。
朝の家事を済ませたら7時から読書と調べ物。
(3)阿毎王権の支配体制
新王権(阿毎王権)では支配制度が物部王権と異なる。
阿毎王権では天子(天皇)の下に「王」が居る。
夏五月癸酉朔丁丑、遣大別王與小黑吉士、宰於百濟國。王人奉命爲使三韓、自稱爲宰。言宰於韓、蓋古之典乎。如今言使也、餘皆傚此。大別王、未詳所出也。冬十一月庚午朔、百濟國王、付還使大別王等、獻經論若干卷、幷律師・禪師・比丘尼・呪禁師・造佛工・造寺工、六人。遂安置於難波大別王寺。『日本書紀』
https://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_20.html
577年に「大別王と小黒吉士を遣わし」とある。
王を百済に派遣している。
大別王は「命をうけたまわり三韓に使いす」とも。
大別王は「王」でありながら阿毎王権の天子(天皇)の命令で三韓に使いしている。阿毎王権では天子の下に「王」が居る支配制度を採っている。
「難波の大別王」とある。
難波は多々良川の川口。
阿毎王権の玄関口。
其の為「大別王」を置いて管理させているのであろう。
物部王権では天子の下に「王」は居ない。物部王権の重臣は「大伴大連金村・許勢臣稲持・物部大連尾輿等」とある。
「大連」や「臣」である。
(欽明)十三年(552年)十月に百済の聖明王が仏像やお経を一杯献上した時、蘇我稲目は「西蕃諸國一皆禮之、豐秋日本豈獨背也。」と述べている。『日本書紀』
https://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_19.html
但し、『日本書紀』は「宣化紀」や「欽明紀」で蘇我稲目を大臣に任命したと書いている。
●(宣化)元年二月壬申朔、以大伴金村大連爲大連、物部麁鹿火大連爲大連、並如故。又以蘇我稻目宿禰爲大臣、阿倍大麻呂臣爲大夫。
●(欽明)即位前紀冬十二月庚辰朔甲申、天國排開廣庭皇子卽天皇位、時年若干。尊皇后曰皇太后、大伴金村大連・物部尾輿大連爲大連、及蘇我稻目宿禰大臣爲大臣、並如故。『日本書紀』
これは『日本書紀』の形式的な記述であり史実でない。
(欽明)元年(540年)に物部王権の天皇が(九州の)難波へ行幸した時、大伴金
村や物部尾輿は天皇に従うが蘇我稲目は登場していない。
上記の●の記述は『日本書紀』の捏造である。
第4章 物部王権の本拠地
1物部麁鹿火と本拠地
(1)糠屋屯倉と難波
(欽明)元年(540年)に物部王権の二代目は難波へ行幸。
(欽明)元年(540年)九月、乙亥朔己卯、幸難波祝津宮、大伴大連金村・許勢臣稻持・物部大連尾輿等從焉。天皇問諸臣曰「幾許軍卒、伐得新羅。」 『日本書紀』
難波に来て天皇は群臣に「どれだけの兵があれば新羅を伐つ事ができるだろうか」と尋ねている。
難波は多々良川の川口。
海の向こうは新羅。
天皇は新羅の方を見ながら尋ねているのであろう。
「難波祝津宮に幸す」とあるように津(港)に来ている。
内陸から難波の海岸に行幸している。
物部王権の本拠地は難波の内陸にあると思われる。
多々良川を遡った所に本拠地はある。
「磐井の乱」の時、物部麁鹿火は糠屋屯倉を手に入れている。
(継体)二十二年十二月、筑紫君葛子、恐坐父誅、獻糟屋屯倉、求贖死罪。
『日本書紀』
「磐井の乱」で筑紫君が伐たれた時、その子は死罪を免れる為に糠屋屯倉を献上。
糠屋屯倉は福岡県糠屋郡糠屋町。
多々良川の北側の地域である。
(安閑)元年(復元531年)に物部木蓮子大連は娘の宅媛と難波屯倉を物部麁鹿火に献上。
●(安閑)元年(復元531年)三月、別立三妃、立許勢男人大臣女紗手媛、紗手媛弟香々有媛、物部木蓮子木蓮子、此云伊陀寐大蓮女宅媛。
●(安閑)元年(復元531年)十月、大伴大連金村奏稱「宜以小墾田屯倉與毎國田部給貺紗手媛、以櫻井屯倉一本云「加貺茅渟山屯倉也。」與毎國田部給賜香々有媛、以難波屯倉與毎郡钁丁給貺宅媛。
『日本書紀』
物部麁鹿火は531年の「磐井の乱」の直後に宅媛と難波屯倉を手に入れている。
難波屯倉は多々良川川口の難波。
物部麁鹿火は「磐井の乱」直後に難波と多々良川沿岸(糠屋屯倉)を手に入れている。
難波の港から安全に多々良川を遡るルートを確保。
よって物部王権の本拠地は多々良川上流にあると推測される。
(2)物部麁鹿火の本拠地
「磐井の乱」で勝利した物部麁鹿火は多々良川口の難波を海の玄関口とし多々良川の上流に本拠地を造る為に難波屯倉と糠屋屯倉を要求し手に入れた。
(3)物部麁鹿火の墓
物部麁鹿火は536年に死去。
本拠地は531年から造成したと思われる。墓はそれ以降に造られている。
墓は本拠地に造られるので多々良川上流にある筈。
物部麁鹿火は物部王権を樹立した初代の天子なのでそれに相応しい墓であろう。
このような条件を満たす墓は福岡県嘉穂郡桂川町寿命にある「桂川(けいせん)王塚古墳」である。
その築造時期は6世紀中葉。
物部麁鹿火が死去した10年後に完成。
↑Wikiで調べたら内部の画像が出て来てめっちゃカラフルで驚いた!

これは王の指示?
それとも側近のアーティストによるもの?6世紀にこんなカラフルなお墓造れるの凄いと思う。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3
このサイトで更にアップで見れた。
余りに素晴らしくて嫉妬で放火する人間まで出て来た。
https://news.yahoo.co.jp/articles/a2fb3c5236afb5355393bc764b59a7896af6c568
全長78mの前方後円墳で長さ4.3m✕幅3.1mの横穴式石室を有し奥壁の前に切石加工された石屋形がある。その上には石棚が。
特徴は何と言っても装飾。石室の全面に赤色。
石屋形や石室の下半には赤・黄色・緑・黒・白の5色で連続三角文を貴重に各種の幾何学的装飾模文様が。
石室側面には多数の配列された靭、盾、大刀など、玄門の左右の袖石には人が乗っている赤馬・黒馬が計5頭、灯明台付近に双脚輪状文と蕨手文等が描かれている。
天井には黄色の粘土で星座が。
副葬品は金環、銀鈴、鏡1,武器(大刀、刀子、槍、桂甲小札)、馬具(鞍、輪鐙、轡、杏葉、雲珠、辻金具)、玉類(菅玉、棗玉、切子玉、丸玉)、土器(土師器、須恵器)等
『探訪 日本の古墳 西日本編』(有斐閣選書R)によると桂川王塚古墳について「6世紀中葉の築造と見られる。系譜上前後に空白がある現時点では遠賀川水系に突如として出現したとしか言いようがない」とある。
当に物部麁鹿火が新しく本拠地に定めた事と一致。
しかも、遠賀川流域で最大の石室。
当に王の墓。
今日はここまで。
16時から夕食作り。

ししゃも、大根の煮物、大根の葉の生姜炒め、オニオンスライス、ビーツの葉の即席漬け、小松菜の黒胡麻和え、サラダ、朝の残りの豚の味噌焼き、ローストナッツ、玄米ご飯、味噌汁、ウォッカ梅酒ロック。
採れたての野菜を次々とおかずに。
これに納豆もプラス。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
歩数計は5465。
充実した一日だった。
