arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1320日目と阿毎王権⑤

2025/4/20日曜日

7時に起床しみんなの朝食作り。

わけぎ入り卵焼きを作っているとCIAから指向性浣腸エネルギーを喰らい邪魔された。

9時から読書と調べ物。

昨日に引き続き、佃收著「物部氏蘇我氏と上宮王家」

 


3 阿毎王権の誕生
(1)新王権の誕生

(欽明)十三年(552年)五月、百済加羅・安羅、中部徳率木刕今敦・河内部阿斯比等を遣わして奏して曰く、「高麗と新羅と通和して勢を併せて臣が国と任那を滅ぼさんと謀る。故、謹みて救いの兵を求め請けて先に不意を攻めむ。軍の多少は天皇の勅の随(まま)に」という。
詔して曰く、「今、百済王・安羅王・加羅王、日本府臣等と倶に使いを遣わし奏する状は聞き訖(お)えぬ。亦任那と共に心を併せ力を一つにすべし。猶このようにすれば必ず上天の擁護の福を蒙る。亦可畏天皇の霊に頼るなり」という。『日本書紀

 

「可畏天皇」は物部麁鹿火

物部麁鹿火の霊に頼ろうとしている。

五月条は物部王権の記録。

552年5月は物部王権は健在。

新王権は誕生していない。


冬十月。 百濟聖明王【更名聖王】、 遣西部姬氏 達率怒唎斯致契等、 獻釋迦佛金銅像一軀 幡蓋若干 經論若干卷。 別表、 讚流通禮拜功德云 「是法、 於諸法中最爲殊勝(中略)」という。

是日。 天皇聞已、歡喜踊躍、 詔使者云 「朕從昔來、 未曾得聞如是微妙之法。 然朕不自決。」 乃歷問群臣曰 「西蕃獻佛、相貌端嚴。 全未曾有、可禮以不。」 蘇我大臣稻目宿禰奏曰 「西蕃諸國一皆禮之、 豐秋日本豈獨背也。」
日本書紀

 

百済から「釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻」が贈られ天皇は「朕、昔よりこのかた、未だかつて是のごとき微妙の法を聞くことを得ず」と語り、「歓喜し、踊り跳ね」たとある。天皇は初めて仏教に接し喜んでいる。
ところがこれ以前に百済から僧が来ている。
554年に次の記事がある。http://himiko-y.com/scrp2/d29kin04.html

 

(欽明)十五年(554年)二月。 百濟遣下部杆率將軍三貴 上部奈率物部烏等 乞救兵。 仍貢德率東城子莫古、代前番奈率東城子言。 五經博士王柳貴、代固德馬丁安。 僧曇慧等九人、代僧道深等七人。『日本書紀

 

「東城子莫古を貢ぎ、東城子言に代える」とある。

また、「僧曇慧等九人を僧道深等七人に代える」とある。
東城子言は人質として554年より前に来ている。

東城子言が来たのは(欽明)八年(547年)である。

 

(欽明)八年夏四月。 百濟遣前部德率眞慕宣文 奈率奇麻等、 乞救軍。 仍貢下部東城子言、代德率汶休麻那。
日本書紀

 

東城子言は547年に来ている。

その7年後の(欽明)十五年(554年)に「東城子言と僧道深等七人」と「東城子莫古と僧曇慧等九人」に代えるとある。

547年に東城子言と共に僧の道深等七人が来ている。

547年は物部王権の時代である。
東城子言や僧道深等七人は百済が「救いの軍」を乞う代わりに派遣された人々。

国と国との交渉。天皇も人質が来たことを知っている。

「救いの軍」の代わりに僧が派遣されているのは天皇が仏教に興味を持っているから。

天皇は547年には既に僧から仏教について話を聞いている。
更にその前の(欽明)六年(545年)にも仏教に関する記事が。

 

是月。 百濟造丈六佛像、製願文曰 「蓋聞、造丈六佛功德甚大。 今敬造、以此功德、 願天皇獲勝善之德、 天皇所用彌移居國倶蒙福祐。 ……」
日本書紀

 

545年には百済は丈六の仏像を造る。

この時、日本の天皇にその功徳を伝える。物部王権の時代である。
このように、物部王権では545年や547年に仏教は伝来している。

天皇は仏教についてよく知っている。

ところが前掲の(欽明)十三年(552年)十月条では、天皇は、「未だかつて是のごとき微妙の法を聞くことを得ず」と語り、「歓喜し、踊り跳ね」たとある。

天皇は初めて仏教に接している。

新しい王権の天皇である事がわかる。
(欽明)十三年(552年)十月条の百済聖明王からの釈迦仏や経論等の数々の贈り物は百済が新王権の誕生を祝して献上しているのであろう。
(欽明)十三年(552年)まては物部王権。
552年10月から新王権。
新王権は552年5月〜10月の間に誕生。

 

(2)新王権とは
新王権は難波(九州)で外国からの賓客をもてなしている。


(欽明)廿二年。 新羅遣久禮叱及伐干、貢調賦。 司賓饗遇禮數、減常。 及伐干、忿恨而罷。是歲。 復遣奴氐大舍、獻前調賦。 於難波大郡、次序諸蕃、 掌客額田部連 葛城直等、 使列于百濟之下而引導。 大舍怒還。不入舘舍、 乘船歸至穴門。『日本書紀

 

561年は新王権の時代である。
新王権は「難波の大都」でもてなしている。

新王権は物部王権を滅ぼして樹立された王権である。

九州の王権であろう。

難波は福岡市東区を流れる多々良川の川口である。

難波の大郡は外国から来た賓客を最初にもてなす所。
難波は賓客を迎える海の玄関口。

新王権の本拠地は多々良川を遡ったところにあると思われる。

新王権は阿毎王権ではないだろうか。
この400年後の608年に裴世清等は難波から多々良川を遡り海石榴市(福岡県嘉穂郡穂波町椿)に出て阿毎王権へ来ている。

新王権は阿毎王権である。

今日はここまで。

 

16時から夕食の用意。

 

大野町からのモツ鍋、ウォッカ梅酒ロック、ローストナッツ。

モツ鍋は長女からの差し入れ。

これにラーメンも足し、総勢8人で良く呑み良く食べた。

 

歩数計は10818。

今日は一歩も外へ出ていない。

この数値はおかしい。

だけど、充実した一日だった。

因みに、昨夜、何らかの毒を盛られ口の中が腫れている。

何やってんだか。