2025/4/19土曜日
7時に起床し納豆作り。
小粒大豆を蒸している間に家の者のサラダと目玉焼き作り。
更に洗濯とベランダガーデニングの水遣り。
9時から読書と調べ物。
◯物部王権の年号(復元した年号)
『襲国偽僭考』によると
●殷倒 531-535年
●僧聴 536-540年
●明要 541-552年
『襲国偽僭考』は次のように書いている。
●僧聴
宣化天皇元年丙辰。僧聴元年と改む。一説に曰く、宣化帝之時、僧聴四年に終わる。
欽明天皇元年、かれが僧聴五年、襲の人、衆を率いて帰附す。欽明紀に曰く、元年三月、蝦夷・隼人、並びに衆を率いて帰附す。
『襲国偽僭考』
536年7月に物部麁鹿火が死去しているのを受け僧聴に改元したか。
僧聴年号は僧聴四年に終わるとあるが、次の文で「僧聴五年……」としているから僧聴は五年まであったとする。
従って、復元した年号は上記のようになる。
〈「安閑紀」と九州年号〉
『日本書紀』の「安閑紀」「宣化紀」「欽明紀」の天皇の在位は次の通り。
●安閑天皇 534-535年
●宣化天皇 536-539年
●欽明天皇 540-571年
『日本書紀』の天皇の在位は九州年号とよく似ている。
『日本書紀』は物部麁鹿火を安閑天皇として記述していると思われる。
『日本書紀』は大和王権の天皇の記録として「安閑紀」「宣化紀」「欽明紀」を立てている。
しかし、その内容は全て北部九州の出来事。
『日本書紀』は「九州年号(物部王権の年号)」を参考にしながら「九州の出来事」を大和王権の出来事であるかのように書いている。
〈安閑天皇とは〉
『日本書紀』の編纂者は「九州年号」を参考にしながら「殷到」年号の天皇(王)は535年に死去したと解釈。
『日本書紀』の編纂者は535年に死去した人物を探した。
そこで安閑天皇を見つけた。
『古事記』に安閑天皇の崩年干支があり「乙卯年三月十三日崩」とある。
乙卯年は535年。
実在の人物。
しかし、安閑天皇は河内に埋葬されている。
河内の人。
『日本書紀』編纂者はは河内の人を安閑天皇に仕立て、あたかも大和王権の天皇であるかのように記述。
しかし「安閑紀」の内容は全て物部麁鹿火の事績。
〈「宣化紀」の捏造〉
「宣化紀」は完全に捏造。
◯「宣化紀」の内容
●(宣化)元年(536年)二月、大伴金村を大連に、物部麁鹿火を大連に、蘇我稲目を大臣に、阿倍大麻呂を丈夫に任命。
(注)内容は捏造。物部麁鹿火は物部王権の天子。物部麁鹿火を大連に任命する人物は居ない。
●(宣化)元年三月、皇后を立て、その子供等について記述。
(注)『日本書紀』の形式的な記述である。
●(宣化)元年五月、蘇我稲目や物部麁鹿火に屯倉の米を運ばせたとある。
(注)『日本書紀』の捏造である。天子である物部麁鹿火に命令できる人はいない。
次に筑紫・肥・豊の屯倉の穀物の一部を博多の那津に集めよと命じている。命じているのは物部麁鹿火である。宣化天皇ではない。大和の天皇の領域は「長門より以東」である。九州の屯倉について命令する事は出来ない。
●(宣化)二年(537年)十月、大伴金村に対してその子の磐と狹手彦を遣わし任那を助けよと命じている、
(注)物部王権の話である。大伴金村は博多の住吉を本拠地にしており540年に物部王権の天皇に従って(北部九州の)難波の祝津宮に来ている。
●(宣化)四年(539年)二月、天皇、桧隈の廬入野宮に崩ず。
「宣化紀」はこれが全て。
「宣化紀」には宣化天皇の事績は一つも無い。大和地方の記録もない。
「宣化紀」の内容は全て物部王権の事。「宣化紀」は九州の出来事をあたかも大和王権の出来事であるかのように捏造。
宣化天皇は『古事記』に崩年干支も無い。宣化天皇は実在の人物であるという証拠は無い。
『日本書紀』の「安閑紀」「宣化紀」は全て九州の物部王権の記録である。
2 王権交代
(1)筑紫君王朝と物部王権
「磐井の乱」で筑紫君は物部麁鹿火に伐たれるが筑紫君王朝はその後も存続。
物部王権と筑紫君王朝は併存(古代史の復元⑤『倭の五王と磐井の乱』)
「九州年号」は二つの王権の年号を記録。「襲国偽僭考」の「九州年号」を筑紫君王朝と物部王権の年号に分けると以下のようになる。
◯筑紫君王朝 ◯物部王権
●善記522-525年●
●正和526-530 ●
●定和531-537●殷到531-535
●常色538-545●僧聴536-540
●(不明) ●明要541-552
●法清554-557
(2)「明要」と「貴楽」年号
『襲国偽僭考』の「九州年号」では「明要」年号の次に「貴楽」年号が来る。
「明要」年号には二説。
①明要三年終了説
②明要十二年終了説
『日本書紀』によると任那復興は「明要」元年の541年から552年まで続く。
「明要」年号は552年まで続いたと推測される。
「十二年説」が正しいと思われる。
『如是院年代記』によってそれら確かめられる。
『如是院年代記』の「明要」年号は「辛酉年(541年)」から「壬申年(552年)」まで。
「十二年説」と一致。
「貴楽」年号にも二説。
◯「貴楽」年号の二説
●「貴楽」年号(二年説) 552-553年
●「貴楽」年号(十八年説) 552-569年
「二年説」の方は筑紫君王朝の年号である「法清」年号(554-557年)が554年から始まると考えたか。
「貴楽」の次に「法清」が来る、と。
王権が二つ併存すると考えなかった。
が、「貴楽」年号は「貴楽十八年に終わる」が正しい。
よって、
●「明要」年号 541-552年
●「貴楽」年号 552-569年
(3)貴楽年号と新王権
貴楽年号と法清年号を見ると両者は重なっている。
◯貴楽年号 552-569年
◯法清年号 554-557年
法清年号は筑紫君王朝の年号。
貴楽年号は筑紫君王朝の年号ではない事がわかる。
では、貴楽年号は物部王権の年号だろうか?
ここで一つ問題が。
上記の2年号を見比べると両者は552年で重なっている。
●明要年号 541-552年
●貴楽年号 552-569年
一つの王権の年号であれば重ならないようにする。
例えば、物部麁鹿火は536年7月に死去。次の王は536年8月に即位。
それを物部麁鹿火の「殷到」年号は「531-535年」にしている。
536年が重ならないようにしている。
「明要」年号と「貴楽」年号が共に同じ物部王権の年号であるならば在位が重ならないようにする筈である。
「明要」年号と「貴楽」年号が重なっているのは王権が異なるから。
よって、「明要」と「貴楽」年号は異なる王権の年号である。
↑九州年号、何で今まで隠されてきたのか。
めっちゃ大事やん。
九州は日本の外交の窓口たったんだから。
今日はここまで。
12時に夫と長女が帰宅。
長女は自分で昼食は何とかする、と言うので、夫にペペロンチーノを調理。
午後も読書と調べ物。
九州王朝について調べるのはとても重要だと思う。
九州、特に博多は外交の窓口と言えばカッコいいが、真っ先に侵略される場所でもある。
これまで、とれだけの島民が犠牲になった事か。
その感謝と慰霊の意もあり自分は2019年に対馬と壱岐を訪れた。
島民が山に隠れる時間を稼ぐために60歳を過ぎた老将守護代宗資国は手勢僅か80余騎で小茂田浜へ。
元の大軍に対峙し奮戦。
元軍はまず、名乗りを上げる宗資国勢に対し笑いながら矢を投射。
日本では古来、お互い名乗りを上げて、相手をリスペクトしてから、一騎討ちをする。
勝敗確定後、負けた者の骸を丁重に扱う。
そんな事も知らねぇー奴らが来て、いきなり大勢で一斉射撃。
宗資国もすぐさまそれを認識。
認識しながらも僅か80名で二万の大軍に奮闘。
その間に島民は山々の中に隠れる事が出来た。
そして、部下をして、博多に元軍来襲の一報を齎した。
この宗資国の行動は素晴らしい!
対馬は山々があったらまだ良かった。
壱岐は山が無い。
隠れる所は穴の中。
赤子が泣くので口を塞いた母も居たそうだ。
見つかると女子供は手の甲に穴を開けられ数珠繋ぎに。
元軍の船に横並びに立たされ弾除けに。
↑やってる事はウクライナと一緒。
奴ら幼稚園に籠もったで。
捕えられた女子供はそのまま朝鮮半島へ連行され奴隷として売られた。
どれだけ怖かった事が。
そして、博多に上陸した元軍との陸戦もあった。
九州の御家人が奮戦。
博多の街は焼き討ちされた。
北九州の人々は外国の侵略軍に対し矢面に立たされ続けて来た。
そんな九州の歴史を無かった事にするなど失礼やないか。
以上、わいの私見。
14時40分から夕食の準備。
16時半に完成。

自分は16時過ぎからローストナッツをツマミにウォッカ梅酒ロックを呑みながら晩酌(笑)
嫁から孫達の昼寝が遅かってので来るのは18時と連絡が。
先に今日のブログをアップする事に。
奴らの計画だと長男一家帰宅後に眠れ眠れ爆弾攻撃で強制睡眠からのブログ削除だから。
歩数計は4897。
充実した一日だった。