arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1318日目と畑と阿毎王権③

2025/4/18金曜日

3時20分に上半身への電磁波攻撃で覚醒。

そのまま、最新情報をチェック。

5時半に起床し長女の朝食と夫の昼食の下ごしらえ。

ベランダガーデニングの水遣りを済ませたら8時に畑へ。

モグラのトンネルを発見。

じゃがいもの真下を貫通していた。

穴の近くに収穫したばかりのネギの根っこをばら撒いてみた。

蕾が出来ていた大根を急遽収穫。

開花していたコカブも。

連日の陽気で大収穫となった。

9時に畑を後にしスーパーで買物。

11時に帰宅後、仕訳をしていると、夫から公園で孫達と遊んでいると連絡が。

このあと、家に連れてきて昼御飯を食べさせるそうだ。

そういえば、朝8時頃、嫁から夫に「夜中に足が攣った」と連絡があった。

で、夫は9時から孫達を預かるよ、と話していた。

足が攣ったら、伸ばせばいいんじゃね?

妊娠中によく夜中に足攣ったのを思い出した。 

ま、DS連中がテクノロジー兵器使って、やってんだろうよ。

それにしても、足が攣ったたけで祖父母カード切るかー、と思いながら昼食を用意。

12時に公園へ向かい孫達と合流。

下の孫は抱っこしていたら寝落ちした。

12時半に家へ来て上の孫にご飯を食べさせ、そのあと、ベランダで野菜を収穫。

室内では夫が目覚めた下の孫にご飯を食べさせていた。

上の孫が「ウンチしたー」と言うのでオムツを替えに中へ。

すると、夫はグースカ昼寝を開始。

下の孫もウンチをしたのでオムツ替え。

この時、今日は孫達を預かって良かったーと思った。

何と、下の孫が電磁波攻撃を受けている事がわかったから。

自分は昨年、両の足に酷い電磁波攻撃を受けた。

↑これと同じ傷が孫の性器の周り、お腹、背中、首の後ろ、両足、と、まだ1歳だから全身にあった。

どうりで、屋外でも室内でもずっと抱っこをせがむわけだよ。

幼いながら必死に訴えてたんよ。

まだ1歳の赤ちゃんにこういう事を平気でやるのがDS。

これ、思い出した。

https://www.sankei.com/article/20140614-FJZLXDHVAVP7JFWJC4F27EL25A/

ばあばといっぱい遊んだ孫達は16時に夫に送られて帰って行った。

そのまま夕食作り。

16時半には作り終え、ローストナッツをツマミに晩酌を開始。

17時半から昨夜以来の食事。

玄米ご飯、なめこと豆腐の味噌汁、納豆、とろろタラコ、サラダ、大根の煮物、ウォッカ梅酒ロック(ほぼ空)、茹で小松菜と牛蒡。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら、読書と調べ物。

 

昨日に引き続き佃收著「物部氏蘇我氏と上宮王家」

 

〈日羅と阿斗〉

日羅は阿毎王権に喚ばれて来る。

日羅は阿斗に滞在する。

 

(敏達)十二年(583年)、朕、当に神の謀を助け奉りて任那を復興せむ。今、百済に在る火(肥後)の芦北国造阿利斯登の子日羅、賢く勇有り。故、朕、その人と相計らむと欲す」という。 (中略)また大夫等を羅波の館に遣わし日羅を訪ねしむ。(中略)乃ち館を阿斗(あと)の桑市に営み、日羅を住まわせ欲するままに供給す。 『紀』

https://ameblo.jp/hyakuokuitininnmenootoko/entry-12636627717.html

 

復(また)、阿倍目臣・物部贄子(にえこ)連・大伴糠手連を遣わし、国政を日羅に問う。『日本書紀

 

日羅は難波から阿斗の桑市に来ている。

阿毎王権の使者は阿斗の桑市に居る日羅を訪ねて国政について質問している。

日羅は帰りも阿斗の桑市から難波へ戻る。

 

ここに恩率・参官・国へ罷(まか)る時に臨み、ひそかに徳爾等に語りて言う、「吾、筑紫を過ぎるとき許(ばかり)を計りて、汝等、ひそかに日羅を殺せば、吾はともに王にもうしてまさに高い爵を賜らむ」という。

 

参官等、遂に血鹿に発途す。ここに、日羅、桑市村より難波の館に遷る。徳爾等、昼夜相計りて殺さむとす。

 

https://ameblo.jp/hyakuokuitininnmenootoko/entry-12636627717.html

 

日羅は「(阿斗の)桑市村より難波の舘に還る」とある。

日羅は阿斗に滞在したままで京には入っていない。

阿毎王権は百済の高官である日羅を警戒し京に入れなかった。

日羅は百済にとって不利な助言をする。

其の為、日羅は百済の従者に殺される。

 

復遣阿倍目臣物部贄子連。大伴糠手子連。而問國政於日羅。日羅對言。天皇所以治天下政。要須護養黎民。何遽興兵翻將失滅。故今令議者仕奉朝列。臣連。二造。〈二造者。國造。伴造也。〉下及百姓。悉皆饒富令無所乏。如此三年。足食足兵。以悅使民。不憚水火。同恤國難。然後多造船舶。毎津列置。使觀客人。令生恐懼。(中略)又奏言。百濟人謀言。有船三百。欲請筑紫。若其實請。冝陽賜予。然則百濟欲新造國。必先以女人小子載船而至國家。望於此時。壹岐。對馬多置伏兵。候至而殺。

http://www.senshu-u.ac.jp/~off1024/nenpyoushiryou/shoki/syoki20-583.12.30.htm

 

日羅は使者の阿倍目臣・物部贄子連・大伴糠手連から国政を問われると「多くの船舶を造り、津毎に列ね置き、客人(百済の)に観せしめて恐怖させよ。」「百済人は謀りて言う『船三百有り。筑紫を請う(要求する)』と。もしそれが実になれば偽って与たまへ。百済は新たに国を造ろうとして必ず女人・小子を以て船に乗せて至る。この時、壱岐対馬に多くの伏兵を置き、至るを窺い殺し給え」と奏上した。

日本書紀

 

日羅はこのようにアドバイスをした。

これを聞いた百済の使者は日羅を殺す事を考えた。

日羅は博多から小郡市に来たところで殺される。

 

調べたら日羅は日本人で大伴金村の部下だった父が金村と朝鮮半島へ赴き、そこで官位を得、住み着いた倭系百済官僚とあった。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85

 

Wikiでは難波で殺され小郡に埋葬された、とあった。

父の芦北国造の阿利斯登は元々熊本の八代出身。

日羅は暗殺を察知し八代を目指す途中で殺されたか。

 

〈阿毎王権と遠賀川

阿毎王権の本拠地へ向かうにはまず難波(福岡市東区)から多々良川を遡り三郡山地を越えて嘉穂郡穂波町椿に出る。

ここから阿斗を経て鞍手郡へ行く。

このルートはかなり厳しい。

勿論、途中から徒歩。何故、遠賀川を利用しないのか。

恐らく①遠賀川は浅くて大型船は通れないのであろう。

↑わいは、遠賀川ルートを教えるとすぐ攻めて来られちゃうからなのでは?と思った。

 

〈阿毎王権の遺跡〉

阿毎王権の本拠地は鞍手郡

鞍手郡には阿毎王権の王墓に相応しい古墳がある。

新延(にのぶ)大塚古墳や銀冠塚古墳。

銀冠塚古墳については『銀冠塚』(福岡県文化財調査報告書 第28集 1963年 福岡県教育委員会)という報告書かある。

それによると、これまでわが国古墳発見の冠は30例位あるが全て今回の例とは相当異なった形式。

則ち、細い冠台の上に大きな出字状の立飾を有する朝鮮金冠塚の系統に属するものか、或いは広帯形式のものである。

ただ、宗像郡宮地嶽神社奥の院の大石室に副葬されたと考えられる一例たけは、今回発見例と、例えば透かし彫り珠文などで極めて近い。

↑それって、阿毎王権と宗像氏は親戚です♥て言うてないか?

 

しかしながら、今回のものに最も近いものは、次に列記する法隆寺関係の諸尊の天冠である。

 

1. 法隆寺金堂金銅釈迦三尊像脇侍(推古31年623年)

2. 東京国立博物館蔵旧法隆寺献納御物金銅弥勒菩薩半跏像(7世紀前半)

3.法隆寺夢殿木造救世観音菩薩像(7世紀中葉)

4. 法隆寺金堂木造四天王像(白雉元年650年)

5. 東京国立博物館蔵旧法隆寺献納御物辛亥明銘金銅観音菩薩像(白雉2年651年)

6. 東京国立博物館蔵旧法隆寺献納御物金銅弥陀三尊像脇侍(7-8世紀)

 

これらは全て、今回のものとは異なり、冠台部の細帯の上に、広く全面に唐草の飾文を置いているが、その正面には、今回のと同性質の二等辺三角形の文様が、その中心をなしている。

則ち、三角形内には忍冬唐草文が入り、その上に花形或いは輪状の文様可安平一番上に宝珠を頂く。

これは、同一モチーフにおける繁簡の差で、文様としては全く同型のものと考えられる。

特に両者に亘り、三角形の縁に見られる透かし彫りによる珠文の手法は、極めて特徴的と言わねばならない。

この点は従来の古墳発見例では、上記のとおり宮地嶽の天冠にのみ見られていたものである。

さて、上記の法隆寺の諸尊が1及び2の推古仏を除いては、他は全て白凰仏と考えられており、この天冠様式の盛行の時期が自ら推定される。

●小結

銀製天冠は7世紀の前葉から中葉にわたる時期より本古墳が古いことを許さないようであるが、(中略)恐らく寿墓と思われるので古墳の営造は7世紀中葉頃と思われる。(金環の数と出土状態から追葬が行われているので)後葉の頃まで使用されたであろう。

以上『銀冠塚』報告書より。

銀冠塚古墳は7世紀中葉頃までに造営されたと言う。

また、7世紀後葉の頃まで使用されたとも。

当に阿毎王権の時代。

阿毎王権は600年に隋へ朝貢

裴世清は608年に来ている。

銀冠塚古墳からは銀製天冠か出土。

金環が8個も出土。

銀冠塚古墳は王墓。

時期から見て裴世清が来た時の王の墓なのでは。

多利思比孤の墓であろうと思われる。

銀製天冠は法隆寺関係の仏像の天冠と極めて近い。

『隋書』は阿毎王権(俀国たいこく)の仏教受容について次のように書いている。

 

大業三年 其王多利思比孤遣使朝貢 使者曰下 聞三海西菩薩天子重興二佛法一 故遣二朝拜一 兼沙門數十人來學二佛法一上

http://himiko-y.com/scrp1/zuisho-01.html

 

阿毎王権は中国(隋)へ沙門数十人を派遣。

仏法を学ばせている。

銀製天冠の様式が仏像の天冠に近いのは阿毎王権が仏教を多利思比孤が受容しているからであろう。

 

〈物部王権と阿毎王権〉

531年の「磐井の乱」で物部麁鹿火は「物部王権」を樹立。

物部王権は「筑紫より以西」(北部九州)を領土にしている。「筑紫・肥・豊」の国である。

600年に阿毎王権(俀国)があり、筑前から豊前までを領域にしている。

物部王権と阿毎王権の領土は一致する。

物部王権と阿毎王権は同じ王権か。

今日はここまで。

↑この記事はアップして欲しく無かったようだ。

ホントは19時にアップしようとして、歩数計まで書いて、いつものように「充実した一日だった」と〆たのに、テクノロジー兵器で眠れ眠れ爆弾で強制就寝。

22時に覚醒したら記事が何処にも無かった。

何、さらすねん。

悪い事しなきゃええやん。

 

歩数計は10343。

充実した一日だった。