arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1317日目と阿毎王権②

2025/4/17木曜日

4時に下からの電子レンジ攻撃で覚醒。

体が異様に熱い。

体の熱が放散されるまで布団を剥いで様子見。

気温8度だから体感の温度は見る見る下がった。

そのまま起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。

6時半に次男を駅まで送迎。

帰宅後、洗濯とベランダガーデニングの水遣り。

ついでにあまえんどうと発芽した芽の撮影。

やる事やったら8時から読書と調べ物。

昨日に引き続き佃收著「物部氏蘇我氏と上宮王家」

 

百済新羅と阿毎王権〉

『隋書』俀国(たいこく)伝は俀国と百済新羅との関係を次のように書いている。

 

敬佛法於百濟求得佛經始有文字。(中略)新羅百濟皆以俀為大國多珎物並敬仰之恒通使往來。『隋書』俀国伝

https://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm

 

俀国は仏法を敬うとある。百済に仏教の経典を求め始めて文字が伝えられたという。

新羅百済は俀国(阿毎政権)を大国として恒に使いを通わし往来するとある。

 

〈阿毎政権と官位制度〉

5世紀の倭の五王時代に素晴らしい上表文を書いているから上層部の人は文字の読み書きが出来た。

始めて文字ありは一般人を指す。

一般人も仏典を読むようになり600年頃には一般人も文字の読み書きが出来るようになった。

 

〈阿毎王権の本拠地〉

 

俀国の所在地について『隋書』は次の通りに書いている。

 

俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居 『隋書』

 

これは俀国が北部九州にある事を示す。

 

水多陸少 以小環挂鸕鷀項令入水捕魚。(中略)

阿蘇山其石無故火起。『隋書』

 

https://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm

「水多く、陸少なし」とある。島や半島が多いのだろう。

九州と思われる。

大和は全て陸である。

「陸少なし」とは言わない。

また、鵜飼をしている。

大和に鵜飼をする所は無い。

やはり九州であろう。

決定的なのは俀国の近くに阿蘇山があること。

俀国(阿毎王権)は九州である。

600年頃の日本列島を代表する俀国(阿毎王権)は北部九州にある。

 

〈裴清の渡来ルート〉

608年に隋から使者が来る。 

裴清(はいせい)である。

裴清は次のルートで俀国に来た。

 

明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀。『隋書』俀国伝

 

裴清等は百済を通り対馬壱岐を経て竹斯国(つくし)へ来ている。筑紫から「東へ行き秦王国に至り、また十餘国を経て海岸に達す」とある。

従来は筑紫から瀬戸内海を通り難波(大阪湾)に来たと解釈してきた。

しかし、瀬戸内海を通る時は海岸に沿って航海する。

海岸に沿って進み大阪湾に到着した時「海岸に達する」とは言わない。

到着した海岸は豊前の海岸であろう。

「竹斯国より以東は皆俀国に附庸す」とある。

俀国の領域は筑前から豊前まで。

俀国はやはり北部九州。

 

〈難波と海石榴市〉

日本書紀では裴清は裴世清(はいせいせい)となっている。

 

十六年夏四月。 小野臣妹子至自大唐。 唐國號妹子臣曰蘇因高。 卽大唐使人裴世淸下客十二人 從妹子臣至於筑紫(①) 遣難波吉士雄成、 召大唐客裴世淸等。 爲唐客更造新館於難波高麗館之上②

 

六月壬寅朔丙辰。 客等泊于難波津、 是日以錺船卅艘迎客等于江口、 安置新館。(中略)

秋八月辛丑朔癸卯。 唐客入京③ 是日、 遣餝騎七十五疋而 迎唐客於海石榴市術(④)

日本書紀

http://himiko-y.com/scrp2/d33sko03.html

 

 

①で裴世清は「筑紫に至る」とある。筑紫は博多。

その後②で「難波津に泊まる」とある。

難波津は多々良川河口であろう。

博多から船で難波に来ている。

裴世清等は「京に入る」とある(③)

そして、「唐客を海石榴市(つばきいち)の術(ちまた)に迎える」とある。

裴世清等は難波から海石榴市(つばきいち)へ来ている。

従来の解釈では裴世清は難波から奈良の桜井市の小治田宮へ来た事になっている。

裴世清の来た608年は『日本書紀』では推古天皇(在位593-626年)の時代。

裴世清が来る5年前に都を小治田宮に遷している。

 

(推 古)十一年 (603年)十月、小墾田宮に遷る。 『日本書紀

 

従来の解釈では裴世清は小治田宮へ来たとしている。

大和川を遡り支流の飛鳥川に沿って行く事になる。

↑難波津から40km以上ある。

船で行けるのか?という疑問はある。

徒歩だとしたらこれまた大変な旅程や。

④によると、京に入ってから飾り騎75匹を出して海石榴市に出迎えた、とある。

京のある桜井市までは馬は無い、と。

やっぱ徒歩なのか。

 

更に、重要な問題は推古天皇が女帝である事である。

『隋書』の俀国は男王である。

王には妻が居るとある。

裴世清は推古天皇の所へきたのではない。

裴世清は阿毎王権へ来ている。

阿毎王権の領域は筑前から豊前の海岸まで。

『海石榴市』はこの範囲にある。

『隋書』では裴清等は筑紫から東へ向かっている。

日本書紀』では筑紫から難波へ行き難波から海石榴市に来ている。

難波(多々良川の河口)の東に海石榴(つばき)があるのだろう。

福岡県嘉穂郡穂波町椿がある。

 

〈阿毎王権と阿斗〉

海石榴市では額田部連比羅夫が裴世清等を出迎える。

 

召唐客於朝庭令奏使旨。『日本書紀

 

『唐の客を朝庭に召す」とある。

唐の客は宮殿に来ている。

宮殿(朝庭)は海石榴市の近くにあるのだろう。

海石榴市と京の間には「阿斗(あと)」というところがある。

外国の客はここで宿泊して京へ入る準備をしたようである。

裴世清が来た2年後の610年に新羅任那の客が来る。

 

秋七月。 新羅使人沙㖨部奈末竹世士、 與任那使人㖨部大舍首智買、 到于筑紫。

 

冬十月己丑朔丙申。 新羅任那使人臻於京。 是日。 命額田部連比羅夫 爲迎新羅客莊馬之長、 以膳臣大伴 爲迎任那客莊馬之長、 卽安置阿斗河邊館(①)

日本書紀

http://himiko-y.com/scrp2/d33sko04.html#220127

 

新羅の客が来た時も額田部連比羅夫は荘馬の長となり、馬を出して出迎えている。

出迎えたところは海石榴市であろう。

海石榴市(椿)は三郡山地を越えて来たところにある。

三郡山地は道が狭いし急な山道。三郡山地を越える時は馬は使えない。其の為、海石榴市(椿)に馬を用意して出迎えている。

①によると、十月八日に新羅客等を『阿斗の河辺の館に安置す』とある。

海石榴市から阿斗に来ている。

一日の行程である。

翌日の十月九日に宮殿へ行く。

『阿斗』は京の手前にあり外国の使者が宿泊するところである。

裴世清は難波(福岡市東区の多々良川の河口)から嘉穂郡穂波町椿(海石榴市)を通り阿斗(飯塚市遠賀川の河辺)に来て翌日京に。

阿毎王権の都は福岡県鞍手郡と推定される。

 

今日はここまで。

17時半から夕食の用意。

といっても自分の文のみ。 

夫も長女も次男も呑み会。

残り物で済ませた。

後片付けを済ませたら、読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は4223。

充実した一日だった。