arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1316日目と阿毎王権

2025/4/16水曜日

未明の3:50に階下からの騒音で覚醒。

2日連続よ。

即座にクレーム。

そのまま起床。

階下の住民による騒音で連日の4時起き。

医者にかかるようになったら出るとこに出るわ。

取り敢えずいつものように長女の

朝食とお弁当のおかず作り。

洗濯とベランダガーデニングの水遣りも済ませたら6時半から読書と調べ物。

 

昨日に引き続き、この本。

佃收著「物部氏蘇我氏と上宮王家」

 

物部尾輿物部麁鹿火筑前鞍手郡十市、怡土(いと)郡(伊都国ー伊勢)及び筑紫国の膽狭山部の土地を献上している筑前鞍手郡)の豪族。

物部麁鹿火は536年に死去しているから540年のこの天皇は物部政権の2代目。

〈物部王権と任那復興〉

「欽明紀」は任那復興問題が中心に。

磐井の乱」後、物部麁鹿火は毛野臣を朝鮮半島に派遣し朝鮮半島南部を支配しようとするが失敗。そこで物部王権は百済の力を借りる。任那復興の詔を百済聖明王を通して伝える。

 

〔二年〕夏四月。 安羅の次旱岐夷呑奚、 大不孫、 久取柔利。 加羅の上首位古殿奚。 卒麻の旱岐。 散半奚の旱岐の児。 多羅の下旱岐の夷他。 斯二岐の旱岐の児。 子他の旱岐等、 任那の日本府の吉備臣と与に、 百済に往赴きて詔を奉る。百済聖明王任那の旱岐等に謂ひて言ひしく 「日本の天皇の所詔者全以ちて復任那を建てよとあり。 今何策や用ゐて任那を起建てむか。 盍各忠を尽くして聖の懐を展べ奉らざるか。」といひき。『日本書紀

http://himikoy.com/scrp2/d29kin01.html#200419

百済聖明王任那諸国と任那日本府の吉備臣を集めて日本の天皇(物部王権)の詔を伝えている。

541年であるから年号は「明要」

物部王権3代目の天皇

●物部王権の年号

・殷到 531-535年 初代物部麁鹿火

・僧聴 536-540年 二代目

・明要 541-552年 三代目

 

〈物部王権と百済救援〉

高句麗に内乱があり、その後高句麗百済を攻めるようになる。百済は日本に救援を求める。

 

●(欽明)6年(545年)是歳、高麗大いに乱れて誅殺される者衆(おお)し。(『百済本紀』に云う、十二月、高麗国の細群と麁群は宮門で戦う。(中略)狛国の香岡上王は斃る。)

●(欽明)七年(546年)正月、百済の使人中部奈率己連等、罷り帰る。仍りて良馬七十匹・船十一隻を賜る。六月、百済、中部奈率掠葉禮等を遣わし調を献じる。

●(欽明)八年(547年)四月、百済、前部徳率真慕宣文・奈率奇麻等を遣わし救いの軍を乞う。

●(欽明)九年(548年)正月、百済の使人前部徳率真慕宣文等、罷らむと請う。因りて詔して曰く「乞う所の救いの軍は必ず遣わし救うであろう。宜しく速やかに王に奉じ給え」という。

六月、使いを遣わし百済に詔して曰く、「徳率(真慕)宣文、帰りて以後、如何か。消息如何に。朕聞く、汝の国は狛の賊の為に害を受けていると。宜しく任那と共に策を励み謀を同じくして前の如く防ぎ距め」という。

十月、三百七十人を百済に遣わし城を得爾辛に助け築く。

●(欽明)十二年(551年)三月、麦種一千斛を以て百済王に賜う。

(欽明)十三年(552年)五月、百済加羅・安羅、中部徳率木刕今敦・河内部阿斯比等を遣わして奏して曰く、「高麗と新羅と通和して勢を併せて臣が国と任那を滅ぼさんと謀る。

故、謹みて救いの兵を求め請けて先に不意を攻めむ。

軍の多少は天皇の勅の随(まま)に」という。『日本書紀

 

百済は狛(高麗〜高句麗)に攻められ物部王権に救援を願い出るようになる。

↑自作自演の偽旗じゃねーの?

裏でみんな繋がってるていう。

 

物部王権は百済に良馬七十匹や船十隻を贈ったり、三百七十人を派遣し城を築かせたりしている。

高句麗は更に新羅と手を握り百済任那を滅ぼそうとする。

百済はそれを物部王権の天皇に訴える。

↑やっぱ、そうなや。

奴らの常套手段。

 

天皇は次のように応える。

 

(欽明)十三年(552年)五月、詔して曰く、「今、百済王・安羅王・加羅王、日本府臣等と倶に使いを遣わし奏する状は聞き訖(お)えぬ。亦任那と共に心を併せ力を一つにすべし。猶このようにすれば必ず上天の擁護の福を蒙る。亦可畏天皇の霊に頼るなり」という。『日本書紀

 

百済王・安羅王・加羅王と任那日本府の臣も加わり物部王権に救援を求めている(笑)

任那日本府は「磐井の乱」直後は物部王権に反抗。

それから21年が経過。

任那日本府を力を失い物部王権に救いを求めている。

「可畏天皇」とは初代の物部麁鹿火の事か。

↑物部王権も薄々自作自演の茶番劇に気付いてんな。

戦争に参加させたくてウズウズ。

 

〈『隋書』の俀国(たいこく)〉

『隋書』は600年頃の日本列島に俀国が存在したことを伝えている。

俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居。(中略)開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕。(中略)王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子為利歌彌多弗利 無城郭 内官有十二等 一曰大德 次小德 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數 有軍尼一百二十人猶中国牧宰 八十戸置一伊尼翼如今里長也 十伊尼翼屬一軍尼。(中略)至隋其王始制冠 以錦綵為之 以金銀鏤花為飾。(中略)戸可十萬。『隋書』俀国伝

 

https://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm

↑上記のサイトで気になる記述が。

 

太子は「利歌弥多弗利」だが、タラシヒコをタ利シホコと聞いているから、利はラ音の可能性がある。

ラカミタフラということになり、これには田村皇子(後の舒明天皇)が該当するのではないか。

聖徳太子が大王で、田村皇子が太子だったと思われる

↑以前何処かのサイトで、次代は言霊を継ぐ為に、前代の諱を使う、とあった。

例えば、孝謙/称徳天皇の諱は「高野」

次次代の桓武天皇の母親は「高野新笠」と改名しているそうだ。

だから、田村皇子だった舒明天皇の前の聖徳太子は諱が知られていないが「田村皇子」だったのでは、とその著者は推測していた。

 

600年に俀国(たいこく)は隋へ朝貢

俀国の王の姓は「阿毎(あま)」とある。冠位が十二階あり、官位制度も整っている。

また、80戸毎に一つの伊尼翼を置き、10伊尼翼が1軍尼に属している。

戸数は10萬戸。

俀国は大国である。

倭国は筑紫君王朝で筑紫君王朝は「磐井の乱」で531年に滅んでいる。

600年頃に倭国は存在しない。

従って俀国(たいこく)は倭国では無い。俀国と倭国は別の国。

誤認を防ぐ為にこの王権を以後「阿毎王権」と呼ぶ事にする。

「阿毎王権」とは俀国の事である。

たいこく、な。

字、違うから。

今日はここまで。

 

12時半に病院から帰宅した夫に昼食を用意。

自分はパス。

引き続き、読書と調べ物。

17時半から夕食の用意。

とろろ明太子、イカのマリネ、朝のお弁当のおかずの残り、昨日の残りの鶏肉とチーズのガレット、きんぴら、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら営業終了。

読書と調べ物の続きをする事に。

 

歩数計は12777。は?

今日一歩も外出てないし読書してただけでこの数値は無いわー。

58歳4カ月のオバハンのスマートウォッチ操作しておもろいか?

おもろいんだよなー、多分。

理解不能だけど。