2025/4/14月曜日
5時に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、夫の昼食作り。
合間に洗濯とベランダガーデニング、醤油絞り。

醤油は絞ると言ってもギュッと絞るわけでは無く、自然に液体が落ちるのを待つだけ。
絞ると醤油液が濁る。
朝まで雨が降ったので畑はお休み。
代わりにベランダで種を蒔いてポット苗の用意。




先週蒔いた種は発芽したのもあった。
春ですわ。
9時半から読書と調べ物。
昨日に引き続き古田武彦著「壬申大乱」
第一の駅鈴問題、 第二の「留守司」問題に続いて、第三は「虎翼」問題。
虎は天武天皇の事。
しかし、吉野で出家する事が翼に値するのか。
奈良の吉野盆地は周囲が山地。
周辺へ通ずる道は僅か3、4本の小道。
それらを塞げば「檻」と同じ。
しかし、これが佐賀の吉野となると話は変わる。
そこには唐の駐留軍が存在。
更に、天武に味方した「大分君惠尺」の存在も大きい。
彼は白村江の戦いに参加していないので無傷。
更に、陸軍に加え水軍も保持していたと予想される。
↑私見だが、「虎翼」フレーズに出てくる「菟道(うじ)」は福岡市の菟道なのではと推察。
福岡市早良区東入部に菟道岳と菟道岳城がある。

この方の情報を参考にした。
http://umihikoyamahiko.net/fukuoka/fukuoka3/todoyama.html
「淑人のよしとよく見て好しと言ひし吉野よく見多良人よく見」
は有明海の「吉野」(北岸)から「多良(太良)」(西岸)にかけて唐の一大船団群が眼前に広がり、中国側の「淑人」は(案じつつやってきた)天武に対し「好し」の一言を与えた。
第四は「倭京」問題。
日本書紀中に全七回出現。
㈠是歳、皇太子(天智。中大兄皇子)奏請して曰く、「倭京に遷らむとねがう(欲冀)」と。天皇(孝徳)許さず。(白雉四年〈653〉)
㈡八月、皇太子(天智。中大兄)倭京に幸す。(天智六年〈667〉)
㈢或は人有りて奏して曰く「近江京より倭京に至るに、處處に候(うかみ)を置けり。亦菟道の守橋者に命じ、皇太弟(天武。大海人皇子)の宮の舎人の私粮を運ぶ事を堪へしむ。」
㈣(天武)穂積臣百足・弟五百枝・物部首日向を以て倭京に遺す。(天武元年六月)
㈤(六)是の日に、東道将軍紀朝臣阿閉麻呂等、倭京の将軍大伴連吹負の近江の為に敗らると聞き、則ち軍を分ち、以て置始連菟を遣して、千余騎を率て急ぎ倭京に馳す。(天武元年七月七日)
㈦(天武)庚子(十二日)に倭京に詣りて嶋宮に御す。(天武元年九月十二日)
上記の「倭京」について従来は「やまとの京(みやこ)」と訓み大和にある京と解した。
しかし近畿天皇家の宮は大和の中に多数存在する。
果たして何処を指すのか論争があった。
しかし、旧唐書・新唐書の倭国伝や日本国伝を見る限り、「倭国(九州王朝)は実在」しており、その内容を見れば「七◯一以前は倭国」の立場。
何故ならその百済伝に書かれた「白江の戦(白村江)」を見れば2回出てくる敵は全て「倭」であり「日本」ではない。則ち、「現在の『日本国』は当時(662)は『倭国』だった」の立場。
「倭京」という九州年号が存在するが、これら九州年号は701年を境に消滅。
「日出処の天子」を自称した多利思北孤が年号を作り忘れたと言う事はあり得ない。
「天子」を称した事の無い新羅でさえ
建元元年(536)〈法興王二十三年〉以来年号を用い115年間連続していた事は周知の事実。
九州年号一覧


しかし、唐は「天子に非んば年号を作る資格無し」の立場を貫いた。
「新羅は大朝(唐)に臣事す。何を以て別に年號を稱する。」と難詰。
新羅は太和二年(649)年号廃止を誓い、その2年後中国の年号を称した。
650年、唐の高宗の時、新羅年号は廃止された。
その十二年後、白江の戦は行われた。
この戦は「日出処の天子(俀国。倭と日没する国の天子(唐)との一大決戦」だったのである。「二人の天子」がそせの大義名分を賭けて激突した。
では、その一方の天子たる「俀国(倭)」には自前の「年号」は無かったのか。
九州年号の中には「倭京」がある。
倭京五年戊寅 618(618-622)
「倭京」とはどの領域か。
これが「倭国(九州王朝)の年号」である点からすれば当然「筑紫」
「紫宸殿」「大裏(内裏)」「大裏岡(内裏岡)」「朱雀殿」などの地名群を持つ大宰府の地を含む事、当然。
「正倉院」の地を含む筑後川領域も、その中心領域に入れなければ。
(「両京制の成立ー九州王朝の都域と年号論ー」古田史学会報、No36 参照)
要するに神籠石群が取り囲む中心域。
また、「肥前の国」の一画(筑後川の右岸領域)(基肄郡・三根郡等)
↑兎に角、奈良の大和で無い事は確か。
調べたら、本当に「正倉院」跡が九州にあった。
下高橋官衙遺跡な。
https://plaza.rakuten.co.jp/hoshigumi/diary/201907210000/?scid=wi_blg_amp_diary_next
記事から一部抜粋。
「倉」と呼ばれる高床倉庫には、租(税の一種)として集められた米が収納されていました。 「屋(おく)」と呼ばれる倉庫には、出挙(すいこ)に用いられる稲穂が収納されていました。 出挙(すいこ)とは、役人が春に強制的に農民に稲を貸しつけ、秋に利息をつけて返させるという鬼制度です。公出挙(くすいこ)ともいいます。 今風に言うと、
役人「君に100円貸すね」
農民「いや、いらないんすけど」
役人「いいから、いいから。秋になったら150円にして返してね」
農民「えぇ!」
そして、秋になると…、
役人「貸した金、返さんかい!」と、ムチを持って登場…。
このような様子が山上憶良(やまのうえのおくら)の「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」に記されています。
出挙以外にも、もちろん、租・調・庸といった税や労役もありました。
このように奈良時代当時の農民の生活は非常に厳しく、自分の土地(口分田=くぶんでん)を捨てて逃げ出す農民も多かったようです。
↑この遺跡は8世紀中頃から軍事施設としても重要拠点となったそう。
日本史で九州王朝があった事と8世紀半ばに王朝の交代があった事、唐の羈縻政策の事教えないといかんやろ。
別にヘイトとか反唐とかじゃなく、史実として。
歴史は繰り返されるんやから。
そうじゃないと、奴ら証拠隠滅図って無かった事にする。
わいが良く参考にしているブログがGooブログなんやけど、2025/11/18で終了やて。

言論統制始まったよー。
17時半から夕食作り。

焼き芋、鮭、大根の煮物、納豆、サラダ、玄米ご飯、醪汁、朝の残り、ウォッカ梅酒ロック。
自分が一日一食になったので夕食に納豆がお目見えするように。
夫はオートファジーしていたが最近やめて一日三食に戻った。
ま、電磁波攻撃されて頭痛と痺れで食べたくても食べれない時があるから、食べれる時に食べた方が良いと思う。
自分は食事中に電磁波攻撃されてるの感知しても、慣れたから食べれる。
電磁波攻撃の存在を認知しているとしてないとで症状の違いはあると思う。
自分は認知しているから何の影響も無い。
何かビリビリ来たなー、以上。
認知して原因がわかっているのは強い。
更に、その被害状況を逐一メモもしている。

このメモは侮れない。
以前、階下の住民からの騒音被害を2年分メモしマンション管理組合に提出。
そしたら、管理組合で議題として取り上げて貰えた。
加害者は管理組合に謝罪しに来たそうだ。
管理組合は管理組合規約に従うと退去勧告出来るからね。
英語で書いているメモは、悪質だなと感じた嫌がらせ。
コピペしてXでポストする用。
XもDSが管理してて言論統制してるとは思うがテレビや新聞よりはマシ。
情報発信しないよりはした方が良い。
最後は誰かしら助けてくれる。
今日はここまで。
歩数計は6562。
充実した一日だった。