2025/4/13日曜日
7時に起床し洗濯。
雨予報だったので浴室乾燥した。
9時から読書と調べ物。
一昨日に引き続き古田武彦著「壬申大乱」
天武天皇御製歌
よき人のよしとよく見てよしと言ひし芳野よく見よよき人よく見(二七)
珍妙な歌として有名。
問題は上記の「訓み」が「原文改定」に依存。
「芳野吉見与 良人四來三」(芳野よく見よよき人よく見)と訓まれているけれど、その原文は
「芳野吉見 多良人四来三」(芳野よく見よ 多良人よく見)
である。
「元暦校本」その他、各本(類聚古集、紀州本)ともにそう。
「多」を「与」と直し一段と珍妙な「土地鑑」を削り去った歌とした。
「多良」とは地名の「太良」
有明海に面した町。
天武天皇の二つの歌(長歌二五、短歌二七)は「大和わく」或いは「近畿わく」では全く処理し切れない。
しかし、肥前(佐賀県)を「作歌場所」とすれば諸矛盾は氷解。
天武天皇は何故「肥前の吉野」を目指したか。
そこは有明海に臨む軍事基地。
何のために?
「淑き人」に会う為。
「淑人」とは中国の古典『詩経』の中に繰り返し出現する有名な「術語」
特に「淑人君子」として出てくる。
意味は国政を預かる人々。
では何故、天武天皇はこの術語を使ったのか。
それは相手もこの術語を知る、中国古典の素養を持つ人物であったから。
更に、その人物は天武より上位の人。
↑天皇より上位の人とは?
白村江の敗戦(天智二年、663)の翌年、中国(唐)の使者が「倭国」(「701」以前。九州王朝)に到来。
①(天智三年)夏五月の戊申の朔甲子に、百済の鎮将劉仁願、朝散丈夫郭務悰等を遣わして表函と獻(けん)物とを進ず。(日本書紀、天智紀)
劉仁願はこのあと「唐内部の勢力争い」に敗れ雲南省に左遷された。
これに反し朝散丈夫の郭務悰(百済人)は「倭国」に何度も到来。
その後の「日本国」に対し多大の影響を投じた。
唐の進駐軍の2回目以降の来倭は次の通り。
②天智四年、254人の兵を率い7/28に対馬、9/20に筑紫。9/22に表函を進ず。
③天智六年 十一月の丁巳の朔乙丑、百済の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令柱国司馬法聴を遣わして、大山下境部連石等を筑紫都督府に送る。
④天智八年 又大唐、郭務悰(百済人)等二千餘人を遣せり。
⑤天智十年正月 辛亥(十三日)に百済の鎮将劉仁顔、李守真等を遣して、上表す。
⑥天智十年十一月 唐国の使人郭務悰(百済人)等六百人、送使沙宅孫登等一千四百人、總合べて二千人、船四十七隻に乗りて倶に比知島に泊まりて(下略)(法師道久・筑紫君薩野麻・韓嶋勝娑婆・布師首磐、四人の報告)
上記のように「八年間に六回」の頻度で到来。
人数も「二百五十四人」「二千余人」「二千人」と極めて多い。
マッカーサーのアメリカ進駐軍も二千人弱の手勢を率いていた。
彼等は筑紫に駐在。
「大和」に駐在した形跡は無い。
では、筑紫の何処に駐留したか。
それは有明海、大村湾、伊万里湾。
その駐留地の中枢が肥前国の吉野。
↑ここで、監視していたか。
天武天皇は、その「吉野」に駐留の「(倭国制圧の)全唐軍の総司令官」郭務悰(百済人)に会いに来た。
駅鈴とは古代、駅使が乗用を許された駅馬の匹数を刻んだ鈴。
駅使の資格には厳しい規定。
駅使乗用の匹数も厳重な規制。
親王・一位は十匹、三位以上は八匹等。
駅鈴は天皇から賜る形式。
大宰府、二十口、三関・陸奥国・四口、大上国、三口。中下国、二口。
駅鈴は我が国の独創。
駅馬の鈴として首に下げられ鈴の音を鳴らしながら駅使は旅を続けた。 (「日本歴史大辞典 吉川弘文館」)
↑鈴の音を鳴らしながら疾走とか、きゃわわ♥
駅馬は馬の「公的利用」の制度。
軍事行動の中枢。
「権力」を支える為の基盤。
従って「延喜式」は次の点を強調。
①駅鈴は常に第一権力者(天皇)の元にあるべき事。
②もし第一権力者の移動がある時は第二権力者乃至留守司が代行・保管する事。
この「留守司」という役所名は日本書紀中壬申の乱中だけに四回出てくる。
(1)大分君恵尺・黄書造大伴・逢臣志摩を留守司の高坂王に遣して驛鈴を乞はしむ。(天武元年六月二十四日)
(2)既にして恵尺等、留守司に至りて東宮の命を挙げて驛鈴を高坂王に乞ふ。然るに聴さず。(同上)
(3)是の日、大伴連の吹負密かに留守司の坂上直熊毛と議りて、(以下略)(天武元年六月二十九日)
(4)爰に留守司高坂王、再び兵を興す使者穂積臣百足等、飛鳥寺の西の槻の下に據りて轡を為す。(同上)
↑佐賀県の吉野の近くにも「飛鳥」あるからね。
一時的な役職名の「留守官」ではなく、「留守司」という公的機関・役所が置かれていた事態。
第一権力者が恒常的に居ないがため、高坂王に駅鈴発給の権限まで任せられている事態とは。
白村江の戦いで「捕囚」の身となった「俀国(たいこく)」(九州王朝)の天子たる薩夜麻。
↑彼が不在、居ないが為の「留守司」創設よ。
日本史の授業で何も教わらないけれど、この7世紀の白村江の戦い後、大唐の駐留軍が筑紫の都督府だけでなく、佐賀の「吉野」にも居たとか。
筑紫の人々にとっては恐ろしい出来事だったろうと思う。
でもってさ、この駐留軍の滞在費も負担してたんやろ?
「思いやり予算」とか言って。
最悪やな。
百済人の郭務悰なんか、美女を侍らせて酒池肉林してたて。
最低やな。
戦争なんか、やるもんじゃない。
今日はここまで。
14時半から夕食の用意。
パン生地を作ってシチューポットパイを作成。

焼いている間に呑みながらサラダやスープを調理。

17時半に長男一家が到来。

皆で焼きたてを美味しく頂いた。
お皿は長男が洗ってくれた。
19時半に帰って行った。
ありがたく、読書と調べ物をする事に。
歩数計は5470。
充実した一日だった。