2024/4/12土曜日
5時に起床し昼食と夕食の下ごしらえ、じゃがいもの黒焼の続き。

横で、パンケーキも焼いた。

焼きながら、最近の愛唱歌、いきものがかりの「SAKURA」をBGMで流しながら、九州王朝の滅亡が決定したあとの長屋天皇一家に何が起きたのか想像してみた。
多分、その時、大宰府政庁から16km離れた筑紫の館(鴻臚館)に来ていた。
進駐軍の唐の都督府絡みのイベントなのでは、と推察。
そこで、突如、軍勢に囲まれながら、死を強要された。
もしかして、山背大兄王みたいに周辺の山中に逃げたのかもしれない。
16km先の大宰府政庁には自らの軍もある。
大伴旅人も居る。
しかし、相手が悪かった。
もし、相手が近畿天皇家だったら内戦。
当時の軍事体制から、倭国の方が有利。
吉野に軍事基地もある。
しかし、相手は唐。
武力で敵わない事を知っている。
長屋大王は悟った。
もし、ここで、挙兵すると、筑紫の街が戦場になる。
筑紫に住む多くの人々が血を流す。
それは、白水江の戦いで還って来なかった兵士が大勢居たのを父や祖父から聞いていた長屋大王には耐えられない出来事。
それで自死を選択。
生駒山中に逃げた山背大兄王に対し家臣の三輪文屋君が「東国に行って態勢を整えて攻めれば良いのでは」と助言した、と言うのは、「大宰府、或いは吉野に行って援軍を要請すれば」と言う事だったのかもしれない。
ちなみに、公では、長屋王と吉備内親王は生駒山に葬られた事になっている。
もしかして、山背大兄王と長屋王は同一人物?と考えた人は他にも居るのでは、と検索すると3人位出て来た。
更に、長屋王の子孫は栃木県で生き延びた、とする記事も。
それは、僥倖。
自分は本当なら、白水江の戦いに参戦し捕虜となり唐の密命(羈縻政策の遂行)を帯びて8年後に帰国し都督府の都督に納まった薩夜麻が悪の根源で責任取るべきだったと考えている。
唐もさ、羈縻政策やるならやるで、もっと円満にやるべきだったのでは。
筑紫の多くの人々はこの異変を知ってたんでないの?
いきなり大人気の大王が居なくなったんだもの。
悲哀の歌、そこらじゅうに一杯残っとるやん。
兎に角、701年に戦勝国の唐(則天武后)が、倭国ではなく、近畿天皇家を日本国政権として認定してから羈縻政策がスタート。
百済系の連中使って。
植民地では無かった。
が、明治維新でイギリスが日本を植民地化、第二次世界大戦後はアメリカが日本を植民地化。
ずーっと搾取されとる。
どうやったら、植民地から抜け出せるんかね。
今日はここまで。
16時から夕食の用意。

チャーシュー、茹でモヤシとほうれん草とスイスチャード、ローストナッツ、つけ麺のつゆ。

麺は17時半に長男一家が来てから茹でた。
8食分。
麺は完食。
孫達も喜んで食べていた。
20時に帰って行った。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は6857。
充実した一日だった。