arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1311日目と壬申大乱

2025/4/11金曜日

6時に起床し昼食の下ごしらえ。

合間に洗濯とベランダガーデニングの水遣り。

そして、じゃがいもの黒焼作り。

じゃがいもをすりおろしたものを昨日から土鍋で焼いている。
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↓ここまで焼いたところで力尽きた。
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今朝、気を取り直し再加熱。

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今日はここまで。

 

9時半に買い物へ。

10時半に帰宅後、食材を仕分けしていたら11時を過ぎた。

夫の昼食を用意してから自室で読書と調べ物。

 

今日は古田武彦著「壬申大乱」
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自分は近頃、壬申の乱が起きたかどうかにも疑義を見出している。

あったとしても、北九州なのでは、と。

取り敢えず読んでみた。

 

肥前国には吉野ケ里遺跡を初め「吉野」と名の付く地名が多い。

恐らく、佐賀県は至る所、水が豊富であり、よしという水草の絶好の生育地。

「よし(葦・蘆・葭)」(「あし」と同じ。)イネ科の多年草

水辺に群生。

高さ2メートルに達する。

日本列島ではありふれた水草

 

ここが本当の吉野の「激つ河内」の舞台。


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持統天皇による吉野行幸の月別回数。

奈良の吉野だと降雪もありうる冬季にも頻繁に行幸


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著者は白水江の戦いの軍港は①有明海佐世保湾大村湾の諸湾とした。

上記の諸湾から出港すれば対馬海流の海域に出たあと順流で済州島まで行ける。これに準じるのは④伊万里湾

 

大宰府から吉野へは軍用道路があった。

「和名抄」によると「宮」があった。

肥前国神埼郡宮處(美也止古呂)

肥前国風土記でも「宮處の郷。郡の西南のかたにあり」と伝えられている。

「主・大唐、従・近畿」を実証する金石文が関東に所在。

那須国造碑」

そこには

〈α〉永昌元年(689、持統三年)

〈β〉歳次庚子年(700、文武四年)

建碑の年代は記されていないが、この石碑の記述対象の韋提が死んだのが歳次庚子年(700)正月ニ壬子日だというならそれ以後。

即ち701年前後。

「701」年とは九州王朝の滅亡と近畿天皇家による交替の公的な時点。

↑唐(則天武后)に宣言された。

何気に凄い史実じゃね?

白水江の戦いで唐に敗戦した倭国は唐に羈縻支配された。

間接統治。

今の日本と同じ。

ズバリ植民地。

 

〈α〉「大唐の年号(則天武后の年号)」ー「周」代

〈β〉干支記載

の両者が記され、日本列島内の権力者としては飛鳥浄御原大宮という天武天皇の宮居が記されている。

天武天皇て、薩夜麻の弟て言ってる人も居たが。

九州王朝の人やないんかい!

 

天武元年〈672〉五月)庚申(三十日)に郭務悰等罷り帰りぬ。

↑郭務悰軍は唐の進駐軍

郭務悰は百済人。

わいはずっと郭務悰て中国・唐の軍人と思ってた。

まだまだ甘いな。

 

人麻呂長歌中の「渡會の、斎の宮ゆ 神風に」の一節は伊勢国伊勢神宮と解してきた。

が、古事記日本書紀に次のような「神武歌謡」がある。

 

神風の 伊勢の海の 大石にや い這ひ廻る 細螺(しただみ)の ……

↑螺(つぶ)

 

先述の神武歌謡に謡われている「神風ー伊勢」の「伊勢」は福岡県糸島郡の「伊勢浦」

「神風」は「神ケ瀬」

ちなみに、人麻呂歌の「皇は神にしませば天雲の雷の上にいほらせるかも」は糸島郡の雷山の天の宮、雲の宮を背景に歌われていた。

↑人麻呂て九州王朝の人なのな。

山上憶良も、大伴旅人も、小野老も。

 

倭国が白水江の戦いで負けたから、唐の駐留軍が押し寄せて来て、羈縻支配受けたのはしゃーないとして、そもそも、何で薩夜麻は百済に味方したんだ?

折角、阿毎政権の多利思北孤が隋の天子に「日出処の天子が日没する処の天子に」てマウントして断交に持ち込んだのに。

他国に攻撃に行ったのがそもそもの間違いよ。

で、唐は唐で何で薩夜麻を捕虜にしてすぐ処刑しなかったんだ?

一国の王を8年間も捕虜にしたまま生殺して。

優しいから捕虜のまま8年間も面倒見たんだろうけど、何で8年後に日本に帰した?

死んだ筈の王様返されても困るわな。

でもって、薩夜麻は、自分の居ない間に、天皇になっていた天智天皇大友皇子を殺した、と。

↑これが壬申の乱

当時唐の都督府と天智政権の政庁は北九州にあったと昨日の情報にあった。

で、天智親子を抹殺し、薩夜麻は天皇に返り咲いた、と?

自分の親兄弟を白水江の戦いで失った遺族たちから怨嗟の声は無かったのか。

それか、あれか、唐軍が援護した?

 

その唐は701年に近畿天皇家を日本国として認定。

倭国政権を否認した。

↑この唐(則天武后)の決定事項を倭国政権は知っていたのか?

唐はちゃんと倭国政権に知らせていたのか?

それとも、倭国政権は何も知らされずに、相も変わらず筑紫で政権を営んでいた?

で、奈良では九州王朝滅亡に向けて着々と準備を勧めていた、と。

でもって、長屋王一家はある日突然抹殺された?

ほんで、滅亡後は正史から九州王朝の史実を抹消。

そこまでする必要ある?

よくある王朝交代やないの?

おえらいさんの考える事はようわからん。

だけど、一生懸命考えたストーリーも次々ボロが出て来て矛盾を突かれまくっている。

それを調べる過程で思ったのは、わいのルーツにもう一つの可能性出て来た。

日本海対馬海流の順流に乗って船で北上してきたかも。

万葉歌は殆どが倭国(九州王朝)で詠まれている、というのも憧れる。

今日はここまで。

 

17時から夕食作り。


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鱈のムニエルと鶏むね肉の紫キャベツサワークリームソース、蛸ともずく酢、ほうれん草とたたき牛蒡、サラダ、納豆、醪汁、ローストナッツ、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら営業終了。

読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は5234。

充実した一日だった。