2025/4/10木曜日
5時半に起床し子供らの朝食と夫の昼食作り。
洗濯とベランダガーデニングの水遣りを済ませたら7時半に長女を駅まで送迎。
そのまま、畑へ。
フェネルとニラ、パクチーの種蒔きをした。

帰宅後、読書と調べ物。
昨日から「長屋大王」の件が気になってしようがないので調べる事に。
神亀元年(724)
二月四日 天皇は位を皇太子に譲られた。

わいは、長屋皇太子が即位したと思って読んだ。
理由は後述。


二月六日 正一位の藤原夫人(宮子)に大夫人の称号を。
三品の田形内親王・吉備内親王に二品を。従四位下の海上女王・智奴女王・藤原朝臣長娥子に従三位を。
二月二十二日 正四位下の六人部王に正四位上を、従四位下の長田王に従四位上を、無位の高田王・膳夫王・正五位上の葛木王(橘諸兄)に従四位下を。
正五位下の高安王・門部王に正五位上を、従五位上の佐為王・桜井王に正五位下を、従五位下の夜珠王に従五位上を、従五位上の佐伯宿儺豊人、佐伯宿禰馬養に従五位上を、正六位上の波多朝臣僧麻呂(ほうしまろ)に従五位下を授与。
三月一日 天皇は芳野宮に行幸。
↑一番最後の芳野宮に行幸が気になった。
調べると、「芳野(吉野)宮」は倭国・九州王朝にも存在するそうだ。

佐賀の軍事基地・吉野
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho138/kai13802.html
めっちゃ遠い。
しかし、倭国の政庁・大宰府から軍事基地・吉野までは30km。
当時の東アジア情勢から軍事基地の視察は重要事項。
不穏な動きがあったのかもしれない。
それで、もしかして、長屋天皇は筑紫・大宰府に居たのでは?と思った。
で、大宰府政庁跡の地図を検索。

この何処かに作寶楼があるのでは?と思い検索したが見つからず。
その過程で大宰府が「寧楽(なら)の都」と言われていた事を知った。
↑奈良の納豆美味しいな、て覚えたのはホントなのか?
更に、当時、外国使節を饗す為の鴻臚館という施設が福岡に存在した事を知った。

https://ameblo.jp/yumenowarutu/entry-12877358972.html
この鴻臚館は小高い場所に位置していたので荒津の浜が見えた、とも。
それは、大ヒント。
長屋王作の有名な漢詩に、昨日紹介したが、「藻浜」というワードがある。

万葉集 荒津の浜 藻浜 で検索すると、関連する歌がわんさか。
この荒津の浜や対岸の志賀島では「藻刈り」が盛んなんだそう。





http://achikochitazusaete.web.fc2.com/manyoukahi/fukuoka/kahi40.html
中には有名な額田王による歌碑も。
近江で詠まれたと思っていた歌も実は筑紫で詠まれていたのな。
これで、額田王(倭姫皇后)筑紫/薩摩出身の大宮姫説の信憑性が高まった。
大宰府政庁から鴻臚館までは16kmの一本道が整備されていたそう。
長屋王は普通に馬乗ってた。
歌からも予想出来るし。
皇太子の膳夫王も殺害された。
だからそこで倭国九州王朝は滅亡?
そういうの、ちゃんと、正史に書いてくれないと。
今の所、わいの私見でしかないから、相手にしてくれなくてええよ。
自分でどんどん確かめるから。
上記の歌碑にも多々あった、山上憶良による歌。
https://www.10000nen.com/lp/pare179294/
山上憶良。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF
尚、当時の情勢として、次のサイトも参考にした。


https://nihonkodaishi.net/special/iida/hidden_assassination_of_tenji_and_true_temmu.html
今日はここまで。
17時から夕食作り。

焼き芋、チーズ in ザワークラウトハンバーグ、蛸の刺身、茹でほうれん草、納豆、味噌汁、ご飯、ウォッカ梅酒ロック。
4/3から始まった一日一食生活も今日で1週間。
特に問題無いので続ける事に。
歩数計は6443。
充実した一日だった。