arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1309日目と聖徳太子は長屋親王である②

2025/4/9水曜日

4時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。

洗濯とベランダガーデニングの水遣りも済ませたら7時過ぎに畑へ。

早生玉ねぎが大きくなっていた。

ニンニクも順調。

9時前に帰宅。

洗濯物がベランダでぶっ飛んでいた(悪魔の仕業)ので回収に向かったついでに桜を撮影。

満開だった。

9時半から読書と調べ物。

昨日に引き続き木村勲著「聖徳太子長屋王である」


〈そして奉納品は絶えた〉
670年に焼失した斑鳩寺はいつ再建され法隆寺となったのか。
正史におけるその名の初出は715年6月の「弘福・法隆のニ寺で法会を催す」
元正女帝の元で式部卿・長屋王(710年に就任)の権力が強まって行く時。

僧尼の管理も同省の職掌のうちだから上の法会は彼の意。
法隆寺東院縁起」に法隆寺「再建」を匂わせる記述が。
天平十一年(739年)……夏四月十日を以て、即ち正三位・藤原捴前(房前)朝臣に命じて敬て造らせ(完成し))」のが此院である」
また、東院完成の4年前に「天平七年(735)十二月二十日、春宮坊(皇太子=後の孝謙女帝)、聖徳尊霊及び今見天朝(現天皇=聖武)の為に法華経を講読させ給う」とある。
夢殿の中には2年前の737年に藤氏皇后(光明子)から施入された上宮王等身の観世音菩薩が納められていた。
再建を急ぐ長屋王による、道慈に佐保邸の宴への招待状となる。

ところが729年の自らの謀殺死で事態は一変。

推進していた当人が鎮魂される立場に。

後始末を託されたのが道慈。

10月に律師に任命。

7年後の736年、再建となった金堂の本尊前で講師役を務める。

しかし、藤原四兄弟の死で暗転。

滅罪にならなかったということで道慈を消去。

行信自ら前面に。

東院完成も前に出した。
寺への資材の搬入の推移。
和銅四年(711)力士形など、2件計4、5点。
養老三年(719)が檀仏像一つと「舎利五粒」の計2点。
同六年(722)、聖武からの白銅供養具の計24口、般若経の百巻、経机敷物、漆泥机五足など。
そして、352貫832文の現金支給。

うち6割近い205貫が律衆・唯識衆・三論衆・別三輪衆の四集団に与えられている。現金支給があった722年には何かの動きがあったか。
720年にトヨミミ活躍の書紀が完成。

719年に長屋王が右大臣に就任。

この年「百万町歩開墾計画」を布告した。
天平元年(729=長屋王殺害の年)に聖武から仁王経二巻・浅縁沙机敷き一張・高座参具など。
天平二年、「法蔵知識」から「聖徳法王御製」の三経義疏
四年四月二十二日、聖武から金泥雑仏像五軀 、画仏像四十張ほか。
五年(733)、皇后宮(光明子)から褥(布団)三十六床ほか。

居住が可能に。
六年(734)二月と三月、皇后宮から五色糸幡四首(飾り旗か)、袈裟十一領、丈六(仏像)分袈裟二領、弥勒仏分麻納袈裟一領、聖僧分座具二枚、丈六文雑物四種など、仏像・僧・五重塔のための白壇香及び丈六分麝香などー式典の準備が進行。
七年、記載無し。
八年(736)になると再建セレモニーの二月二十二日付で多くが奉納。
まず、皇后から丈六(本尊)分を主に薬師分・観世音菩薩分・聖僧分として多数の鉢・鋺・香炉・水瓶・銅鏡及び香合などが何回かに分けて。

同日付、無漏王(橘諸兄の妹で藤原房前の妻)から白銅鏡花形一面。

数こそ多いが総じて付属の小物類。

メインの仏像類は完成済みか。

小物類にしても華麗に違いなく法華経の世界。

主役は光明子で「思い」が伝わる。
重大な事実は法隆寺は現・金堂が先に建てられ後から釈迦三尊像が搬入された。

若草伽藍時代の本尊は実際に丈六仏と思われ、再現された新像は無理なく運びこめるサイズ。

即国家鎮護というより、まず以てその人の慰霊が目的。

金堂の内部空間に比べて小ぶりである理由。
総合プロデューサーが道慈。

まず、偉大な仏教尊者トヨトミミ皇子を書紀の中に創り上げていった。

そして、729年に長屋王が死亡。

その怨のエネルギーを尊像内に幽閉。

トヨトミミ顕彰の国家政策を推進した当の人(長屋王)がトヨトミミの覆いのもとに包み隠され余念を許さぬ聖域・聖体として完成させた。
悪魔崇拝やっとる。


法隆寺資財帳の末尾には「大僧都行信」の署名が追加付記の形であり、道慈没後三年に彼の差配で道慈時代のものをベースに仕上げた。
冒頭部に薬師像が「聖徳法王」から。

釈迦像などが「王后」からの施入として書かれ、647年の条には許世徳陁(巨勢徳太)が孝徳帝に頼み食封三百戸を寺に入れた事も記す。

山背大兄王の一族を滅ぼしたことへの懺悔とも取れる文脈となり、厩戸トヨトミミの実在性を裏付ける記述に。
法隆寺資財帳は書紀の核心部の論拠を為す文書としても作られていた。
740年9月に九州で起こった藤原広嗣の乱をきっかけに聖武天皇は10月に伊勢に行幸

壬申の乱時の祖父天武天皇のコースを辿った。

が、乱は10月には鎮圧。

畿内に戻り恭仁京に入った頃から4,5年に渡る都彷徨が始まった。

恭仁京難波京→紫香楽京→平城京と。

滅罪は法隆寺程度の再建では駄目だったとし、極限の巨大さと膨大多量へ。

巨大寺院と巨大大仏の建立意図に拍車が掛かった。
聖武天皇は橘と藤原の板挟みになり難波宮へ逃避。
帰還の1週間前に京は何処が良いか諸官庁の官人、及び四大寺(薬師、大安、元興、興福)に「民意」も聞いた。

「全員、平城」だった。
光明は父・不比等邸を法華寺として住まいとする。

それまでは長屋・吉備の旧本邸を使っていた(笑)
法隆寺資財帳(747年)のその後を確認すると、四兄弟の死の翌年、天平十年正月十七日に聖武から伎楽道具、錦張、布幕、画屏風、食器、瓼(さらけ)(浅底の瓶)百口などの小物類。

4/12に播磨・但馬・相模・上野の四国で各五十戸計二百戸分の食封などと読める。

これを最後に聖武天皇光明皇后からの納入は途絶える。

彼等の納入は東大寺に向けられるようになった。
東院資財帳(761年)の方も見ておく。

天平九年二月二十二日、藤氏皇后(光明子)から「上宮王等身観世音菩薩(後に救世観音の名)」が施入される。

この観音近代の詩人で彫刻家の高村光太郎は多くの美術評論を遺したが彫刻で最も熱情を込めて語ったのが救世観音。
「お顔や手はまるで生きている人を標準にして刻んで付けている。……あの御像は確かに聖徳太子をお作りする積もりで拵えたに違ひないと私は信ずる」更に、制作情況をこう推察。

「時間的には短い期間に早く拵えた作だと思ふ。長く考へながら拵へた作ではない。夢中になって拵へ、かかりきりで一気呵成に仕上げた作だ。……杖とも柱とも頼む聖徳太子を慕って、何だって亡くなられたらうと思う痛恨な悲憤な気持で居ても立ってもゐられない思ひに憑かれたやうになつて拵へ、結果がどうならうとそれを眼中に入れないで作られたものであらう」(「回想録」1944年)

著者は無論、長屋の名に入れ替えて読む。「結果がどうならうと」には完成程なく、ぐるぐる巻で封印される運命が込められている。

不穏を感知した光太郎の鋭利な詩的感性を思う。
森下和貴子氏は道慈を興福寺の僧として捉える説を主張。

道慈は帰国した718年から興福寺に。

737年4月には大安寺に。

氏は玄昉が735年に多数の新たな仏典・仏像をもって帰国した事を重視。

玄昉と言えば、聖武の母、藤原宮子を元気にした話が有名。

光明の信任篤く興福寺に入る。
森下氏は長屋王と道慈の接点を728年9月(事件の五ヶ月前)の長屋王願経に見る(神亀経と言われる)亡父母高市皇子御名部皇女と歴代天皇の為の大般若経一部六百巻の書写!で末尾に検校(検証・検閲)者としての「藤原寺僧 道慈」の署名に着目。
↑「高市天皇と御名部皇后と歴代天皇」やろ。

ネットで検索したら長屋王の写経したやつ一杯あった。

めっちゃ字綺麗だった。

 

長屋は同じ大般若経の書写を712年にも行っていた(和銅経と言われる)寺崎保広氏は長屋の仏教との関わりの深さを強調する(『長屋王』1999年)
寺崎氏は長屋王願経は王邸出土の木簡が作業所の存在を示唆しており日常的に仏事が行われていたと指摘。

長屋王の邸宅の瓦は独自のもので同じものが奈良のいくつかの仏寺跡から出ている。興福寺の北円堂(八角形堂=現在のは鎌倉期の再建)造立時の政府首班は長屋王

木簡に見える「縫殿所」「染処」は唐の高僧(鑑真?)への千の袈裟を作ったところでは?

鑑真が語ったところによると、「長屋王は仏法を崇拝し千の袈裟を造って我が国の大徳や衆僧に寄贈。袈裟の縁には、山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁 との綉(ぬいと)りがあった。縁の深い国と思う」と。
長屋は国の仏教界の乱れを正す為に厳正な受戒のできる高僧に来て欲しかった。
↑これって、天皇の施策じゃね?

高僧の招聘も、千領の袈裟作りも。

長屋天皇説は後日調べる事に。

今日はここまで。

 

 

18時から皆の夕食作り。

18時45分から夫と夕食。

厚揚げと里芋の煮物、ローストナッツ、茹でほうれん草、納豆、玄米ご飯、残り物の味噌汁、カレー、朝の残りのブロッコリーと鶏むね肉ケチャップ炒め、ウォッカ梅酒ロック。

デカい方の茶碗が自分の。

昨夜以来何も食べていない。

流石にお腹が空いたので、いつも以上にモリモリ食べた。

後片付けを済ませたら、ブログ編集。

 

それにしても、この天平時代以前の記述を読む際は、いちいち、これは肥前/筑紫と大倭のどちらの事を言っている?と考えながら読む癖がついた。

本当にあるんよ。

九州に。

大和も飛鳥も岡も吉野も。

奈良以前の出来事は九州の筑紫や肥前で行われている事が多い。

このあとも読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は6213。

充実した一日だった。