2025/4/7月曜日
5時に起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。
洗濯とベランダガーデニングの水遣りも済ませたら8時過ぎに桜サイクリングへ。

見沼代用水沿いはかなり満開に近かった。

あちらこちらで菜の花も。

帰り道は雲や風も出てきて桜の花びらが舞い散り初めていた。

買い物も済ませ10時半に帰宅。
爽快な2時間サイクリングで汗だくになったので総着替え。
11時から読書と調べ物。
今日はこの本。

オープニングは水田遺跡について。
1978年5月、九州北岸の中部、博多湾岸の板付遺跡で水田跡が見つかる!
高知大学と北九州大学による放射線炭素年代測定法で検査したところ、2900年前(紀元前930年)の遺跡と判明。
1981年8月、菜畑遺跡(唐津)が発見された。

板付より更に古い。
箕子が朝鮮の民に教えたのは礼儀、つまり中国(周)の天子への礼だけでは無かった。田蚕、織作の道も教えた。
布目順郎氏によると「蚕」の種は洛陽・楽浪系。

殷代、更には先殷期、つまり夏代に「稲」ことに米粒が伝わっていたとしても不思議は無い。
「殷米」や「夏米」の渡来。
後代の倭人伝に、
夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蚊竜の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身し、亦以て大魚・水禽を厭う。後稍々以て飾りと為す。
とあり、夏の遺風が倭人に及んだ可能性に言及。
「文身」とは入れ墨、彫物の事。
https://hagamag.com/series/s0057/7482
会稽と倭(九州か)は中国海(渤海から東シナ海まで。私(古田)の命名)を挟んだ同じ「文身圏」であるから「夏米」や「殷米」が渡来してもおかしくない。
が、水田は別。
これは技術者の渡来が必要。
更に対価も。
十二分な貢物をして初めて「田づくり」の法を授与されたと推察。
それを裏付けるのが周初貢献倭人の出身地(金印の志賀島)と縄文水田(菜畑・板付)の地帯との一致。
このように縄文晩期に「周田の伝播」があった。
〈周公の証言〉
周初(紀元前11世紀)の記録とされる『尚書』に倭人に対する周公の言葉が。
海隅、日を出だす。率俾せざるは罔し。
"東の海の彼方の一隅に日の出るところがある。そこに住む夷蛮の地から、貢献の使者がやってきた(そんな遠方まで、凡そ貢献しない者は鋳なくなった)"という意で周公の治が遥か東方海上の夷蛮の地まで、その徳化を与えた、それを誇っている。
周公とは周王朝の第一代武王(前1134〜1116)の弟である。
武公は死に臨み周公の遺児の後見を託した。
遺児とは第二代の成王である。
周公は兄の負託に応え、少年天子の後見役として周王朝の基礎を築き、同時に後来の中国文明の原型とも言うべき中枢文化を開化させた。
この周公の成王補佐の業は「摂政」とか「左治天下」という名で呼ばれている。
史上に著名な「周公の治」とは周王朝第二成王の時期を指すのである。
「率俾」とは"天子に臣服する"という意味の熟語。
周公を喜ばしめたこの貢献を導いたのは箕子朝鮮の箕子。
箕子は殷朝の宰相。
紂王の暴虐に愛想を尽かし朝鮮に逃れそこに建国。
それが所謂「箕子朝鮮」
↑これさ、紀元前DSが朝鮮侵略を正当化してないか?
確か、殷と箕子朝鮮は古代DS(アーリア人)が建国。
ヒント:アリラン歌
殷朝を倒して天子の位についた周朝の第一代、武王は殷の名宰相だった箕子に敬意を払い彼を「臣」として扱わなくった。
箕子は第二代成王の時、自ら鎬京(長安のあたり)なる周都を訪ね臣礼を取った。
その際、周辺の夷蛮に「中国の天子への礼」を教え、その「成功」を報告。
↑大陸の方が進んでて取り敢えず従った方が良いと判断したのな。
今日はここまで。
18時から夕食作り。

鮭、玄米ご飯、味噌汁、エビサラダ、ほうれん草とスイスチャードとベーコンの炒め物、鶏むねピカタ、茹でほうれん草、納豆、ウォッカ梅酒ロック。
18時半に昨夜以来の食事。
一日一食にして今日で3日目。
自分が昼食をパスした時点で夫は部屋から出なくなった。
きっかけ作っといていじけるとか意味わからん。
わいは一日のうち半日は読書に費やす。
昼にお腹一杯食べると夜はお腹が空かないまま着席し困っていたんよ。
活動量からして一日一食で十分。
食いしん坊の夫には理解出来ないだろうけど。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は532。
15kmサイクリングしてきたんやけどね。
スマートウォッチにもハッキングされたか。
充実した一日だった。