arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1305日目と畑、のあとの天平時代と毒③

2925/4/5土曜日

6時に起床し洗濯とベランダガーデニングの水遣り。

やる事やったら8時半に畑へ。

まだ、若干ドロドロだったが2カ所を耕した。

そして、種蒔き。

今日もほうれん草を収穫。

10時に帰宅後、読書と調べ物。

昨日に引き続き船山信次著「毒が変えた天平時代」

 

大変に皮肉な事であるが、後の764年に藤原仲麻呂が乱を起こした際は、正倉院に収集されたこれらの武器は造東大寺司長官に復帰した吉備真備率いる孝謙上皇の軍によって活用され仲麻呂の命を奪う事になる。

正倉院には『種々藥帳』にリストアップされている以外にも薬物が「帳外品」として収蔵。

 

正倉院は「北倉」と「南倉」に分かれている事から、それぞれの倉の名前と番号で呼ぼれている。

その中の一つに「N(北倉)ー111」というものがあり、これが鳥の卵様の形状をした硫化砒素化合物の雄黄である。以下、これを「正倉院雄黄」と称させて頂く。雄黄に火を付けると亜砒酸(As₂O₃)と呼ばれる猛毒の砒素化合物が生成。

『種々藥帳』の一部。

このリストの中には(六〇)冶葛のような毒性の高い薬物もある。

冶葛とは東南アジア原産のゲルセミウム・エレガンス(ゲルセミウム科)の根から調製される生薬。

この生薬に含まれるゲルセミンを初めとするアルカロイドには強毒性があるが皮膚病の治療に用いられる事もある。

(五九)狼毒も毒性が高い生薬と類推されるが未だ解明されていない。

砒素の硫化物である「雄黄」は鳥の卵の形状。

養老律令鴆毒について

鴆毒の正体は亜砒酸(三酸化二砒素)の可能性が高いと考えている。

正倉院雄黄の正体は硫化砒素。

硫化砒素には着火すると猛毒の亜砒酸が発生する。

養老律令の冶葛について

正倉院冶葛は当初32斤(約7.14kg)納められていた。献納から100年後の856年には僅か607g。

現在残っているのは約390g。

冶葛はいつもたらされたのか?

遣唐使からであれば玄昉や吉備真備が帰国した735年なのか、それとも鑑真や二回目の渡唐から吉備真備も帰国した753〜754年なのか。

もし735年なら、737年の藤原四兄弟の死や744年の安積親王の死に関わっていた可能性もある。

冶葛は無味無臭の亜砒酸と異なりかなりの刺激がある。

757年の橘奈良麻呂の乱の際、443人が捕らえられ仲麻呂によって処刑されている。その際も使われたかも。

藤原四兄弟の死

737/4/17 次男藤原房前(57)

同7/13 四男麻呂(43)

同7/25 長男武智麻呂(58)

同8/5 三男宇合(44)

後に名前の出てくる麻呂・武智麻呂・宇合の3名は僅か23日間の間に死亡。

四兄弟のうち先に亡くなった房前に関する「続日本紀」の記載は薨去の事実のみ。

その生涯や死因について一言も書かれていない。

藤原四兄弟暗殺の可能性

不比等の子のうち亡くなったのは男子のみ。

著者は藤原仲麻呂が関わったのでは、と推察。

四兄弟の死と仲麻呂の躍進

四兄弟の死後、737年当時33歳の仲麻呂は事実上の氏長者に。

仲麻呂は更に740年の藤原広嗣の乱で従兄の広嗣を殺害。

744年には聖武天皇皇子の安積親王の暗殺にも手を染め光明皇后の歓心を買っている。

本格的に権力を握った時には吉備真備や僧玄昉を左遷。

親戚の橘奈良麻呂の乱に際しては443人を殺害。

実兄の藤原豊成を大宰員外帥に左遷した。

僧玄昉は阿部仲麻呂吉備真備と共に717年に入唐。

735年に阿部仲麻呂以外は帰国。

玄昉は海龍王寺の別当に。

この寺は僧玄昉が一切経と新しい仏法をわが国にもたらすことを願い光明子によって731年に創建。

玄昉は唐での留学経験を生かし数々の仏教政策を献案。

東大寺国分寺国分尼寺の造営など。

しかし、745年、大宰府の筑紫観世音寺造営別当として左遷されると、翌年その地で怪死。

元亨釈書』には746年の観世音寺落慶法要の日、玄昉が導師として高座に登り鐘を鳴らした時、俄に雲が掛かり雷と共に悪霊が現れ玄昉を掴んで空に舞い上がり、やがて胴や手足が落ちてきて弟子達がそれらを埋葬したそうな。

玄昉の頭部は奈良の藤原氏の氏寺である当時の興福寺内に落ち人々はこれを740年に乱を起こし処刑された藤原広嗣の怨霊の仕業だと伝える(『続日本紀』)

著者は玄昉の745年の左遷の原因は744年の安積親王暗殺の秘密を握っていたこともあるのではないかと推察。

暗殺の首謀者である仲麻呂が使用した毒物を737年の藤原四兄弟の暗殺に引き続き玄昉が提供した可能性がある。

時期的にその口封じなのでは。

751年、59歳で吉備真備、2度目の入唐。遣唐副使として。

遣唐大使の藤原清河のサポートか。清河の大命は鑑真の来朝か。

↑確か、長屋王だったか、鑑真に、日本に来て来て手紙書いてたの。

 

754年、真備帰国。

62歳。

そのまま大宰少弐として大宰府へ赴任。

764年、真備、中央へ造東大寺司長官として復帰。

72歳!

東大寺司は大量の器材・人員(武器や兵)を科抱えている点で一朝事ある時は巨大な軍隊に。

仲麻呂にとって重要なものだったがその長官に当時の最高の軍師である吉備真備が任命された。

この直前の762年に孝謙上皇が「国家の大事と賞罰の両者は朕がする」という宣命を下している。

吉備真備は72歳という高齢だったが、この年764年9月11日…………、上皇は「仲麻呂討つべし」との決断を下し真備に作戦の総指揮を執るよう命じた。

↑今日はここまで。

 

いつもは昼の12時に昨夜以来の食事を食べるが、今夕は長男一家主催の焼肉パーティーがあるので、そこでモリモリ食べる事に。

17時から夫の退職祝いと次男の就職祝いを開催。

自分以外のメンツで買ってきてくれた肉と野菜でモリモリ食べた。

20時半に長男一家が帰って行った。

お皿は皆で交代で洗った。

 

歩数計は8758。

充実した一日だった。