2025/4/4金曜日
5時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。
洗濯とベランダガーデニングを済ませたら9時過ぎに久しぶりに畑へ。
ネギボウズが出ていた。

ネギボウズのネギは収穫。
そして、じゃが芋も続々と発芽。

この長雨で種芋が腐らないかと心配していた。

張り切って持参した納豆菌培養液を振り掛けた。
まだ、泥々なので軽く耕した。
長靴を履いた足が泥に取られまくり、作業が覚束ない。
ほうれん草を収穫し早々に引き上げた。
スーパーで買い物後、11時に帰宅。
先に、テニスに行く夫の昼食の用意を済ませた。
11時半から読書と調べ物。
昨日に引き続き、この本。

〈橘奈良麻呂の乱と冶葛(やかつ)乱用の疑い〉
この乱の目的は大納言藤原仲麻呂を殺害し孝謙天皇を廃位。
仲麻呂屋敷内に住んでいる大炊王を廃太子にし、光明皇后から駅鈴と天皇御璽を奪い、長屋王遺児の安宿王・黄文王、塩焼王、道祖王の中から次期の天皇を立てる事だった。
要は、孝謙天皇の後釜争い。
捕らえられたのは443名。
うち、262名は免罪に。
残る181名のうち何人が死罪になったのか。
756年に7.14kg奉納された冶葛(やかつ)は787年の延暦六年曝涼使解(ばくりょうしげ)及び793年の延暦十二年曝涼使解の際にはいずれも僅か10g減の7.13kg。
55年後の811年の曝涼(弘仁二年勘物使解)の際には4.66kg減の2.47kg。
100年後の856年の曝涼(斉衝三年雑財物実録)時には1.86kg減の0.61kgに激減。
787年の曝涼記録には付記として758年(天平宝字二年)十二月十六日付で0.71kg出蔵したとする記録。
其の為、本来の収蔵量は当初の収蔵量とされる三二斤の三分(約10グラム)減の三一斤一五両一分ではなく、それより三斤三両多い三五斤二両一分が収蔵されていたと計算される(勘定三五斤ニ両一分)とも記載されている。
この記述によれば、当初の正倉院への冶葛の収蔵量は三ニ斤ではなくそれより三斤三両多い三五斤三両と言う。
恐らく冶葛の当初の収蔵量に誤りは無い。また、当時国内で賄う事が不可能な冶葛が後に加算される事など到底考えられない。
何らかのからくりがありそうだ。
787年〜812年の間の約4.66kgもの大量の欠は注目に値する。
856年には更に1.8kg減少。
ここまでの全減少量は787年までの10g減を除くと、合計6.52kgにも及ぶ。
↑一体何百人殺せるんだ?
これは当初収蔵された量の九割超。
↑Wao!
このような大量の冶葛の出蔵は何の為?
これだけの大量の冶葛の真っ当な消費であれば正式な出蔵記録が残っているのが普通。
当時正倉院の出蔵を勝手に行える人物は藤原仲麻呂。
「仲麻呂が出蔵させたと思われるものについては、何れもその出蔵の目的や趣旨が明記されていない」という。
2020年秋に奈良の国立博物館にて開催された第七二回正倉院展を拝観した際、延暦十二年曝涼使解(793年)の実物を見た。
橘奈良麻呂の乱後間もなくに冶葛が出蔵されたなら、その出蔵の記録が読み取れる筈。
が、そこには、前述の通り、当初756年に三ニ斤(7.14kg)奉納された冶葛は僅かに三分(約10g)減に該当する残量三一斤一五両一分(7.13kg)との記録が見られるのみ。
これでは、757年の橘奈良麻呂の乱後に、大量の冶葛の出蔵という、著者の推定は根底から崩れる。
そこで、再度注目したのが、その6年前の787年(延暦六年)の曝涼記録に付記としてある「天平宝字二年(758年)12月16日付の三斤三両(0.71kg)出蔵」の記録。
これは、大量に出蔵した事実を隠蔽する為の嘘の記録だったのでは?
実際には、これ以前に、その後の811年或いは856年に残っていた冶葛の量を差し引いた4.66kg(20斤14両1分)又は6.52kg(二九斤三両三分)を出蔵していのでは。
これらの量を出蔵した際に記録として合計三斤三両出蔵という嘘の記録を残したと疑う。
しかしながら、悪い事は出来ないもので、実際の出納の隠蔽に失敗。
冶葛に似た生薬をダミーとして入れ替えたものの、入れ替える量を誤った。
ダミーを加える際。残量を二八斤一二両一分としなければならなかったところを、全量を出蔵前と同じ量の三一斤一五両一分にしてしまった。
よって、787年の段階で元々「嘘の出蔵記録」であった三斤三両多い「勘定三五斤ニ両一分」と記載されるということになってしまったと考えられる。
↑756年32斤(7.14kg)
(758年3斤3両▽(0.71kg)
787年31斤15両1分(7.13kg)
793年31斤15両1分(7.13kg)
811年11斤1両(2.47kg)
856年2斤11両2分(0.61kg)
確かに、出納上おかしい。
著者は、ダミーは787年と793年の曝涼では気付かれなかったものの、811年の曝涼時にばれ、この時に冶葛のうちニ◯斤十四両一分(4.66kg)が「欠」となり、856年には更なるダミーの存在が暴かれ冶葛の残量は0.61kg(ニ斤一一両ニ分)となり冶葛のそれまでの総出蔵量は6.53kgとなった。
この量こそが藤原仲麻呂による実際の冶葛の出蔵量ではなかったか。
冶葛はその抽出方法などに多くのファクターが絡む為に正確な致死量はわからないものの、冶葛30〜40gの抽出エキスは人間1人を殺害出来る量なのでは。
とすれば、この目的で正倉院から出蔵された冶葛が6.52kgとすればこの量は成人160〜320人の命に関わる。
↑抵抗勢力を抹殺したかったのな。
仲麻呂はこのあと淳仁天皇使って、ロスチャイルドみたいに貨幣鋳造権ゲットするから。
それで、孝謙上皇が「お前何やっとんねん!」て出てくる。
今日はここまで。
13時に昨夜以来の食事。
夫は12時にテニスに行って不在。
のんびり食べた。
午後も読書と調べ物。
17時半から夕食の用意。

茹でほうれん草、ザワークラウトサラダ、残り物のキャベツラザニア、すき煮、鯖、鶏とソーセージ、べったら漬。
自分はお腹が空かないのでパス。
ウォッカ梅酒ロックだけ頂く事に。
このあとも読書と調べ物をする事に。
歩数計は6944。
充実した一日だった。