arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1302日目と多利思北孤

2025/4/2水曜日

5時半に起床し子供達の朝食と長女のお弁当のおかず作り。

雨なので子供達を駅まで送ろうとしたら夫が起きてきて、送ってくれると言う。

ありがたく、おやつのせんべいとクッキー作り。

10時から読書と調べ物。

 

今日はこの本。

この中の多利思北孤による九州分国に関する論述が興味深かった。

 

「続・九州を論ずー国内史料に見える『九州』の分国」
一、国内史料に見える「九州」補遺

古田氏は『高良山隆慶上人伝』に「九州」表記を発見。
この史料は神籠石で有名な高良山久留米市)の山麓にある御井寺を開基した隆慶上人(649〜721)の伝記。

成立は延長二年(924)、筆者は高良山御井寺第十世総覚律師。

高良山隆慶上人伝
上人諱は隆慶、世姓は紀氏。

人皇八代孝元天皇十一世の苗裔、武内大臣八代の的孫なり。

父は紀の護良、母は弓削氏

 

當社垂迹より已降(このかた)、紀氏は累代九國を監察し、三韓を守禦す。

故に九州、尤も其の氏族を重んず。

 

上記の隆慶上人伝によれば、上人の出自は紀氏で当社(高良大社)に玉垂命が垂迹して以来、九国(九州島)を観察し、朝鮮半島三国まで守禦していた。

九州で紀氏は最も重きを為した氏族。


〈古田氏による分析〉
この史料によると紀氏が最も重きを於いた氏族ということになっているが近畿天皇家でそのような痕跡は無い。

また、紀氏が累代九国を観察したという記述も『記紀』に無い。
また、稲員家系図などによると、隆慶上人が高良玉垂命の後裔であり七世紀後半に稲員家と分かれて高良山座主職となったことが見える。

この高良玉垂命こそ四世紀後半(仁徳五十五年、376。『吉山旧記』による)から六世紀末(端政元年[九州年号]、589。大宰管内誌による)にかけて筑前博多湾岸から筑後三潴(みずま)に遷宮した九州王朝歴代の王家であったこと、筆者は既に発表済み。「隆慶上人伝」は七世紀後半の九州王朝王族の出家伝承(史料)に基づいて王朝滅亡後(701年前後)に編纂された。


二「分国」記事管見
聖徳太子傅記』の分国記事

数ある聖徳太子の伝記中、文保二年(1318)頃に成立したとされる「聖徳太子傅記」に記載の分国記事は下記。

 

太子十八御時
春正月参内執行國政也、自神代至人王十二代景行天皇ノ御宇國未分、十三代成務天皇ノ御時始分三十三ヵ國、太子又奏シテ分六十六ヵ國玉ヘリ、(中略)筑前筑後肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩、昔ハ六ヵ國今ハ分テ作九ヶ國、名西海道也、(後略)

 

この記事によれば、聖徳太子十八歳(『聖徳太子傅記』によれば崇峻二年にあたる。589)の時、それまで三十三国であった日本国を六十六国に分割するよう聖徳太子が上奏。

九州の場合、六国を九国に分国したとされる。ちなみにこの『聖徳太子傅記』には九州年号が散見。

例えば聖徳太子の生年を「年号ハ異説金光三年壬辰歳也(572)」と記載。

この他にも「勝照三年(582)」「勝照四年戊申(583)崇峻天皇即位」「太子廿二歳御時年号ハ端政五年癸丑(593)」などの使用例が見られる。
九州の分国を589年とすると、聖徳太子による分国上奏は、散見される九州年号の存在から九州王朝内部での分国上奏記事だったのでは。

そうすると589年は九州年号の端政元年に当たり、恐らく多利思北孤即位の年と思われる。
何故なら法隆寺釈迦三尊像光背銘に見える多利思北孤の年号、法興は元年が591年。
九州年号の端政三年に当たる。
太宰管内誌によると、玉垂命が三潴の大善寺玉垂宮で端正元年(『二中歴』では端政)に没したという。

この「玉垂命」は筑後遷宮期における歴代倭王の呼称。

端正元年に没した玉垂命は、多利思北孤の前代と思われる。

玉垂命の崩御に伴い九州年号の勝照が端政と改元された、と推測。
即ち、多利思北孤は自らの即位と同時に九州の分国と天子の呼称を用いたか。
九州王朝の天子多利思北孤による分国記事が後代に於いて聖徳太子の事績として盗用されたか。
もう一つ分国記事を伝える史料が『日本略記』(文禄五年成立、1596)
敏達天皇の時、九州年号の鏡常三年(『二中歴』では「鏡當」)に聖徳太子の異見により分国したという内容。

聖徳太子傅記』記載の589年より6年早い583年の分国記事。

共に聖徳太子の上奏とする点が一致。

『鏡常三年』という九州年号表記も九州王朝の分国記事からの盗用を窺わせる。

これを多利思北孤の事績と考えると鏡常三年は前代在位中であるから多利思北孤皇太子の時。

従って九州王朝皇太子多利思北孤が分国を上奏し、6年後の端政元年(589)、多利思北孤即位時に分国を実施したと考えれば二つの分国記事が一連の事件として理解可能。
下関市に『穴戸豊浦宮』があった。『豊浦』という地名は同地が『豊国』の一部であった可能性がある。
↑豊浦と言えば蘇我氏

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書と調べ物。

17時から夕食作り。

撮影した画像は保存されていなかった。

献立はすき煮、残り物の豆乳スープ、べったら漬、鶏とネギのオイスター炒め、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら、読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は3895。

充実した一日だった。