2025/3/30日曜日
5時半に覚醒。
最新情報をチェック後、6時半に起床し昼食と夕食の下ごしらえ。
合間に洗濯とベランダガーデニングの水遣り。
10時半から読書と調べ物。
昨日に引き続き古田武彦著「古代は輝いていたⅢ」
第二部仏教渡来の複数ルート
第一章九州王朝と仏教
〈三世紀の洛陽〉
"卑弥呼は仏教の事を知っていた"
景初三年(239)卑弥呼の使者、難升米一行は魏の都、洛陽に到着。
天子(明帝)に拝謁。
紀元前後に中国に仏教が伝播して以来、洛陽は仏教が栄えた都で仏典の翻訳が盛んに。
浄土教系では「平等覚経」四巻、精しくは「仏説無量清浄平等覚経」は後漢、月支国三蔵、支婁迦讖訳とされている。
最も代表的な浄土経典として親鸞が尊崇し依拠した「仏説無量寿経」二巻は曹魏、天竺三蔵、康僧鎧訳とされる。
「曹魏」とは三世紀、卑弥呼達の使者が赴いた魏朝のこと。
また、「大阿弥陀経」二巻は上巻が「仏説阿弥陀経三耶三仏薩楼仏壇入道経」と呼ばれ、下巻が「仏説阿弥陀経」と呼ばれ、何れも呉、月支国、友謙訳とされる。
この「呉」は三世紀、あの孫権の国。
難升米の到着した洛陽には天竺や月支国から来た僧や中国人僧侶達が行き交う異国情緒漂う寺院や人が人目を引いた。
今も洛陽に現存する白馬寺が中国最初の仏寺として後漢期(68)に創建された。
〈高句麗仏教〉
『三国遺事』巻三によると高句麗へは我道により仏教がもたらされた、とある。

魏の人が高句麗に来た際、現地の女性を孕ませ本国へ帰還。
残された女性は生まれた子が5歳になった時、出家させ、16歳になった時、父の故郷、魏へ帰化。
玄彰和尚の弟子軍団に加わり僧侶に。
19歳で母の居る高句麗に戻り言った。
『この国では今でもまだ仏法を知らない』と。
『三国遺事』は高麗の忠烈王の時、僧一然の撰した本。
『三国史記』と並ぶ朝鮮半島を代表する史書。
この討高句麗軍が日本海岸にまで達した事は母丘倹伝や東夷伝序文に詳しい。
↑高麗軍が日本海岸にまで達した事、わいは、今知った。
当然、難升米一行も目にし女王卑弥呼に報告された。
上の記事は魏の正始年間(第三代斉王のとき)
『三国志』によると正始年間は魏ー高句麗間の交渉の濃密な時。
(正始七年=246)春二月、幽州の勅使、毌丘倹、高句麗を討つ (『三国志』斉王紀)
この正始年間は倭国も魏朝と繰り返し国交を密にした。
(正始元年=240)太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、……倭王、使に因って上表し、詔恩を答謝す。
(正始四年=243)倭王、復た使丈夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、……率善中郎将の印綬を壱拝す。
(正始八年=247)太守王頎官に至る。……塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為して之を告喩す。
〈朝鮮半島の倭軍と仏教〉
前節では魏から高句麗への仏法の伝播を考察したが、それは「私伝」
「公伝」については『三国史記』がある。
(1)(小獣林王二年=372)夏六月、秦王符堅、使を遣わす。及び浮屠(僧侶)順道、仏像・経文を送る。王、使を遣わし、廻謝し、以て方物を貢す。
(2)(同四年=374)僧、阿道来る。
(3)(同五年=375)二月、始めて肖門寺を創め、以て順道を置く。又、伊弗蘭寺を創め、以て阿道を置く。此れ、海東仏法の始め。
(4)(広開土王二年=393)九寺を平穣(壌)に創む。(高句麗本紀 第六)
以上によって四世紀後半の中葉以降、高句麗には公式に仏教が広かったと知れる。
更に注目すべきは、(4)に示されている好太王(広開土王)の仏教保護政策。
しかし、それは高句麗だけでは無かった。
(5)(枕流王元年=384)九月、胡僧、摩羅難陀、晋より至る。王、之を迎え、宮内に致し、礼敬す。仏法、此に始まる。
(6)(同二年=385)春二月、仏寺を漢山に創め、僧十人を度す。 (『三国史記』百済本紀、第二)
百済と共同作戦を取ったのが倭国。
帯方郡治を南朝の為に確保する事を大義名分に。
秦ー北朝。
前秦、後秦、西秦と秦系の中国と国交を結んでいた高句麗が、倭軍と激突。
好太王碑
倭、辛卯の年を以て来る。(高句麗)海を渡って百残〈……羅〉を破り、以て臣民と為す。
北から南への渡海作戦は有効であった。
↑ようわからん。
高句麗仏教は秦の北朝系仏教、
百済は晋(東晋)の南朝系仏教の伝播によって国家仏教を創始。
倭国は百済と同盟している以上、一貫して南朝主義、南朝系仏教。
〈九州王朝への公伝〉
『宋書』夷蛮伝に、インドシナ・インド方面の国々の国王からの国書には、宋朝の仏教奨励統治を讃えている、とある。
『隋書』俀国伝では
仏法を敬す。百済に於て仏経を求得し、始めて文字有り。
と記されている。
宋朝以前に「東晋→百済」と流入した仏教が直後、「百済→倭」と伝播したのでは。四世紀末葉から5世紀初頭の頃に。
↑今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書しようかと思っていたら夫と長男が昼寝しない上の孫を連れて帰ってきた。
3人にラーメンを調理。
孫の相手をしているうちに、16時に。
夕食を作る時間に。
公園に行った御一行が帰って来る前に撮影。
17時に嫁と下の孫が到来。
来た順に食べて貰った。

サラダ、大根の醪煮、高野豆腐と鶏ももの揚げ焼き、ウォッカ梅酒ロック。
お皿は長男が洗ってくれた。
長男一家は19時過ぎに帰って行った。
ありがたく読書と調べ物をする事に。
歩数計は5571。
充実した一日だった。