arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1298日目と筑紫君磐井⑧

2025/3/29土曜日

6時に起床し長女の朝食と昼食の下ごしらえ。

ついでにおやつのどら焼き作り。

昨日と生地の水分量を変えた。

今日は水分量が多過ぎて柔らかいけれどぺっちゃんこに。

夫には好評だった。

 

張り切って洗濯機を回したら終日雨予報。

いつの間に天気予報変わったん?

浴室乾燥する事に。

10時から読書と調べ物。

 

昨日に引き続き古田武彦著「古代は輝いていた三」

↑昨日まで「だいさんかん」て打つと出てきたローマ数字は今日から出なくなった。

言論統制は4/1からじゃないんか?

 

〈中国の制度史〉
古墳時代の「倭国」が臣事していた中国の六朝、そこには「国県制」があった。
(a)周の封建制。天子のもとに「国」
(b)秦の郡県制。天下に「郡」を置き、その下に「県」を置いた。
(c)漢の郡国制。天下に「郡」と「国」を置き、それぞれの下に「県」
中国には「郡ー県」と共に「国ー県」の制が存在。

倭国の王達は自己の国に「県」を置いた。その倭国に置いて成立したのがA型の「県『風土記』」であった事は当然。
礼記」によると、日本列島から中国側への文化の流入もあったと伝える。

 

魯公に命じて、世世、周公を祀るに天子之礼楽を以てす。……味(まい)は東夷之楽なり。任は南蛮之楽なり。夷蛮之楽を大廟に納め、広魯を天下に言うなり。(『礼記』明堂位、第十四)

 

孔子に聖人と崇められた周公旦の霊を祀る際の「天下之礼」の一つが「夷蛮之楽」
「夷蛮」とは"東夷と南蛮"。東夷の楽を「味(まい)」と言い南蛮の楽を「任」と言った。

『論衝』にも


成王の時、越常、雉を献じ、倭人暢草を貢す。


とある。
↑「暢草」とは「香ひ草で、祭祀に当り、酒に和して地に注ぐと、気を高遠に達して神を降すの効ありと言はれて居た」
https://furigana.info/w/%E6%9A%A2%E8%8D%89

 

周公旦自身も、


海隅、日を出だす。率俾せざるは罔し。


と述べ、倭人達が箕子朝鮮(平壌)を通じて貢献してきた事に満足の意を表した。
倭人」とは光武帝後漢)に金印を授与された倭人志賀島倭人、筑紫の倭人だった。
〈『続日本紀』の証言 〉
筑紫に古代舞楽かあった事実は『続日本紀』にも記載がある。


天平三年=731,7月)乙亥、雅楽寮の雑学生の員を定む。大唐の楽卅(さんじゅう)九人。百済の楽廿六人。高麗の楽八人。新羅の楽四人。度羅の楽六十二人。諸県の舞八人。筑紫の舞廿人。
其の大唐の楽生は夏蕃を言はず。教習に堪へたる者を取る。百済・高麗・新羅等の楽生は並びに当蕃の学に堪へたる者を取る。但、度羅の楽・諸県・筑紫の舞生は、並びに楽戸を取る。(巻十一、聖武天皇


上記は近衛天皇家が周辺における先進の舞楽を学ばせる為のメンバーを定めた、という記事。

海外では「大唐」「百済」「高麗」「新羅」「度羅」(吐火羅か)の諸国。

海内では「諸県」(日向の諸県か)「筑紫」
「夏蕃」は「夏」とその周辺(蕃)を指す。
海内に数多存在していた舞楽の中で諸県(神武天皇出身の日向国)の舞と並んで筑紫の舞が伝承すべき雅楽として指定されている。
〈伝承された筑紫舞〉
「筑紫舞」は今日に遺存している。

↑周公旦て、中国でも有名な偉人。

賢公なんだそう。

孔子に崇められてるて凄い。

その周公旦に認められ、彼を祀る儀式で舞を披露する栄誉を賜ったのは素晴らしい。

ちなみに周公旦も成帝も紀元前1000年の人な。

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書と調べ物。

自分もどら焼きを試食したが、もう少し生地に厚みが欲しい。

水分量は昨日と今日の中間にして作る事に。

17時から夕食作り。

極寒の中ゴルフをやって来た長女が帰宅。

お腹空いたし眠いと言うので出来たおかずから食べさせる事に。

それを聞きつけた夫も食べたいと言い、18時前にダイニングテーブルはchaosに。

まだ調理中の自分の分だけ流し台で撮影。

玄米ご飯、人参と紫キャベツのコンソメスープ、とろろ明太子、大豆サラダ、大根と仙台麩の煮物、茹でほうれん草。

これに、焼き芋と鮭、赤魚の粕漬け、ウォッカ梅酒ロックもプラス。

良く呑み良く食べた。

お皿は長女が洗ってくれた。

ありがたく読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は3661。

充実した一日だった。