2025/3/26水曜日
5時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、おやつのせんべい作り。
クッキーやケーキの甘い手作りおやつは常備している。
が、しょっぱい手作りおやつは無いのですっと作ってみたかった。
クックパッドで残りご飯で作るせんべいのレシピがあったのでトライ。
材料は玄米ごはん、塩、ごま油。

左側は柔らかかったので更に15分焼いてパリッパリに。
夫に絶賛された。
次は醤油味を、とリクエストも。
9時半にチョイと畑へ。
ザワークラウトに使うキャベツを収穫に。
10時半に卒業旅行に向かう次男を駅まで送迎。
買い物をしてから11時40分に帰宅。
そのまま昨夜以来の食事の用意。
納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。
午後は読書と調べ物。
昨日に引き続き古田武彦著「古代は輝いていたⅢ」
このように播磨の寺号に「九州年号」が表れている。
「九州年号」とは"九州を都とした権力の設けた年号"の意。
"九州だけに用いられた年号"の意ではない。
よって「倭国年号」の称が相応しい。
〈飛鳥の九州年号〉
飛鳥仏教が播磨仏教に根ざす事は「日本書紀」が明証。
敏達十三年=584、この年、蘇我馬子宿禰は、その仏像二体を請いうけ、鞍作村主司馬達等と池辺直水田を四方に遣わして、修行者を探させた。 播磨国に僧で還俗した、高麗人の恵便という人があった。 馬子大臣はその人を仏法の師とした。…………
これによって馬子宿禰、池辺水田、司馬達等は、仏法を深く信じて修行を怠らなかた。 馬子宿禰はまた、石川の家に仏殿を造った。 仏法の広まりはここから始まった。
この記事は天皇家の本拠たる飛鳥の地が播磨仏教の影響下に仏教文化を花開かせるに至った事を告白。
この伝播状況から見る時、蘇我氏が六世紀末葉から七世紀初頭にかけて飛鳥の地に建築した一大寺院、飛鳥寺、その別名たる法興寺の名について、それは「九州年号」の「法興」に基づくものではないかと認識する。

この詔に基づいて全国で次々と作成された各国「風土記」群が「郡」を行政単位としたのは当然。(B型)
ところがこれとは異なる一群が九州に存在。「県(あがA型た)」が行政単位(A型とする)。
A型ー九州のみ
B型ー全国
元明天皇は「九州風土記(A型)」を真似して「『風土記』(B型)撰進」した。
先の「筑後国風土記」で「上妻県」とある。これは、筑紫の王者(倭王)であった筑紫の君磐井の治世下の行政単位が「県」であったことを示す。第二巻で述べた「景行天皇の九州大遠征」や「神功皇后の筑後征伐」は九州王者の「県」施行を裏付ける。
↑第二巻はあとで読む事に。
つまり、本来、近畿天皇家の史実や伝承でなく九州王朝の発展史の各部分を切り取ってあたかも近畿天皇家内の天皇や皇后の業績であるがのごとく、挿入、つまり偽入したものである事を論証。
↑もし本当なら騙されていた訳で、ムカつくけど、知らないでいるよりは知れて良かった。
無知の知。
〈国県制の成立〉
〈近畿〉菟田、菟田下、猛田、層富、春日、磯城、十市、大和茅渟、河内
〈九州〉水沼、八女、長峡、直入、高来、八代、熊、諸、子湯
上記を分析。
㈠近畿については「東鯷国」(銅鐸国家)の行政単位に「県」があった。それを侵入者たる近畿天皇家が継承。
㈡九州については、九州王朝の行政単位の反映。近畿天皇家(神武達兄弟)は、その県を行政単位とする国としての倭国(九州)の一端から出発して近畿に侵入。従って「東鯷国」の県制を継承したのは当然。
↑「県」制度は九州王朝から伝わった、と。
「東鯷国」てなんだろ?
わいは第一巻と第二巻読んでないからわからないのか。
そのうち読むことに。
今日はここまで。
17時から夕食作り。
合間にザワークラウトとあんこ作り。
鯷」
豚しゃぶサラダ、玄米ごはん、味噌汁、ウォッカ梅酒ロック。
冷しゃぶサラダ用に最近好評の梅おかかドレッシングも作った。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は3263。
充実した一日だった。