arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1288日目と筑紫君磐井②

2025/3/23日曜日

8時に起床し洗濯とベランダガーデニングの水遣り。

合間におやつのクッキー作り。

味醂粕きなこクッキーを作った。

10時から読書と調べ物。

 

今日もこの本。


第三章律令体制の国家。
筑紫君磐井の側から探る。
①磐井律令の問題
従来の日本古代史の常識では大宝律令に始まる文武天皇の時代。

その前段階として七世紀後半の「近江令」や「浄御原律令」がある。
しかし、東アジアに目を向けると、

㈠秦の始皇帝による「律令」、これを漢も継承。
㈡この律令は大綱を「律」と言い条文を「令」とした。律が中心。令が補足。前代に定められた律を次代の令で補っている。両者同質の法令。

前者が主、後者が従。
㈢上記の秦・漢の律令は魏・晋・宋・斉・梁・陳と六朝に継承された。


天監元年(五〇二、梁の武帝)八月、乃ち詔を下して曰く、「律令、一ならずば、実に弊を去り難し。………前王の律、後王の令、因循創附する、良(まこと)に各以有り」(「隋書」刑法志)


この「天監元年」は倭王武が最後に授号(征東将軍)された年。

隋朝はこのような律令の先例に注意した上で自らも律令を制定。
㈣上記のように「秦→隋」の時代に制定され発布されていた律令を今「古律令」と名付ける。
㈤これらに対し唐代に制定されたのが「律令格式」
令ー尊卑貴賤の等級、国家の制度。
格ー百官有司の常に行ふべき事。
式ーその常に守る所の法。
律ー以上三者に触れる者、及び他の罪戻を犯す者を断ずる規定を記した書。(諸橋「大漢和辞典」)

つまり、ここでは、「令」が大本。

「格」はその補い。

「式」は細目。

この三者に違反する者を「律」で裁く、という体系。

今これを「新律令」と名付ける。


〈日本列島の律令史〉
日本の律令が㈤の唐の「新律令」の濃厚な影響下に成立。

唐の律令をそのまま引用、若しくは模倣と見られる条目も少なくない。

律令格式」という概念の立て方も同一。要するに大宝律令(及びそれに続く養老律令)を唐の(新律令)の伝播と見做す事は安定した見解。

ところが、秦から隋に至る千年前後の律令に対し倭国は一切模倣せず。
この千年に於いて倭国が中国と没交渉ならわかる。しかし、史実は、没交渉どころか華々しい。
三世紀、卑弥呼が難升米を洛陽に遣わした時、魏朝は律令国家。
五世紀、倭の五王ご建康(今の南京)に使者を繰り返し派遣した時、同じく、南朝劉宋も律令国家。
七世紀前半、俀(たい)国王の多利思北孤(たりしほこ)が国使を隋の煬帝に送った時、隋朝もまた律令国家であった。

然るに一切律令の伝播が無かったのは奇態。

倭国が反中国だったのなら理解出来る。が、事実は「親魏倭王」を喜んだ卑弥呼にせよ「ー大将軍」号を熱望した倭の五王にせよ中国の制度を敬慕しその冊封下に参入する事を願い続けた。


朝鮮半島律令
三国史記」によると新羅は六世紀前半、律令を制定。

(法興王七年=520、庚子)春正月、律令を頒示す。始めて百官公服・朱紫の秩を制す。(「三国史記新羅本紀、四)
この一文を分析。
㈠日本の古代史学者の中にはこれを「造作」とし、史実を疑う向きもあったがそれは妥当ではない。

彼等の論拠は、
①日本の律令体制は八世紀初頭。萌芽期ですら七世紀後半期。
②その模範となった唐の律令は七世紀中葉以降の成立。
③これらの唐・日本より遥かに早く六世紀前半で新羅律令が施行されたとは信じ難い。
③の唐・日本に関する論拠は唐の「新律令」の伝播の問題。
「古律令」に関しては前三世紀の秦朝に始まり七世紀前半に及ぶ。その、「古律令」の伝播が新羅に於いて六世紀前半に現れる。
(二)これを裏付けるのは第二巻で述べている(180ページ)「三国史記」の史料性格。
↑この本は第三巻だった!今知った。追々第一巻と第二巻読まねば。

㈢上記のような史料性格は次の高句麗百済における律令施行問題も暗示。

楽浪郡帯方郡との地理的位置からしても新羅に先んじて百済が「古律令」を施行していとしても不思議では無い。

百済本紀に詳細が無いのは史料散佚による可能性が高い。

↑秦から隋の「古律令」と唐の「新律令」とを分けて分析する事が大事なのな。


〈古律令の痕跡〉
筑後風土記」によると、筑紫の君磐井の墓墳に石像や石猪、石馬等が配置されている、とある。
著者によると、これは「裁判の場」を表しているそうだ。

中央に「解部」と呼ばれる裁判官が。

その前に猪を盗んだ者が伏せ、

解部によって裁かれているそうだ。

ここで展示された「裁判の場」こそ「古律令の制定と施行」をシンボライズするもの。

裁判場と石像参考リンクhttps://kusennjyu.exblog.jp/page/4/

↑筑紫君磐井が自身の墓の側に裁判場を設けた、という史実が興味深かった。

6世紀の為政者だが、裁判や律令の大切さを後々まで伝えよう、という心意気が感じられる。

この方の功績は素晴らしい。 

続きを読むのが楽しみだ。

 

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書をしていたら、14時過ぎに長男がお昼寝をしない上の孫を連れて到来。

一緒に本を読んだりして過ごした。

15時半から夕食のたこ焼きのタネ作り。

調べたら、たこ焼きのタネは30分以上寝かした方が良い、とあったのでタネを作り冷蔵庫へ。

引き続き、サラダ作り。

16時半からたこ焼き作り。

途中から長女が替わってくれた。

たこ焼き、かきたま汁、サラダ、ウォッカ梅酒ロック。

17時に第一回目のたこ焼きが焼き上がり。

同時に嫁と下の孫も到来。

18穴のたこ焼き器で5回焼いた。

流石に皆、お腹一杯に。

長男一家は20時過ぎに帰って行った。

ブログを投稿したら、読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は5964。

充実した一日だった。