arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1282日目と持統天皇①

2025/3/17月曜日

5時に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、おやつのサワークリームケーキ作り。

サワークリームケーキ

洗濯とベランダガーデニングの水遣りを済ませたら7時半に長女を駅まで送迎。

9時に買い物へ。

11時に帰宅後、買ってきた食材を仕分けている間に11時半に。

そのまま食事作り。

12時に昨夜以来の食事。

夫は昨日の残りのパスタとサラダと豆乳スープ。

自分は納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。

午後は読書と調べ物。

今日からは持統天皇本。

まずはこちらの本。

持統天皇の謎 山本

読んで気になった部分をメモ。

 

続日本紀文武天皇三年(六九五)五月廿四日に、役ノ小角が伊豆の島に流された事が記録されている。
はじめ、葛木山に住し呪術を以て称されるとある。従五位下の渡来人韓国連広足は小角を師としていたがその能を妬み、妖惑だと讒したので流された。
が、あとで讒言と判った為、翌々年の大宝元年(七〇一)に許されている。
世間の評判では、小角はよく鬼神を使いこなし、水を汲ませたり、薪を採らせたりした。
もし、命令に服さないと呪術をもって縛すと伝えられる。
更に、「日本霊異記」によると、役ノ゙小角のこうした呪験力は密教孔雀明王の呪法を修めたので、天を駆ける仙術も可能だった、と説明される。
そして「今昔物語」だと鬼神を駆使し葛城山から吉野金峯山に橋を架けたという話が生まれる。
そこで、後世、吉野・大峯山の開祖と言われ、修験道の開祖と奉られてきた。
役ノ゙小角は決して架空の人物ではない。先述の、文武天皇三年五月という期日は持統の吉野通いが一度ぱったり止まっていた時期。
日本書紀欽明天皇十三年十月に百済聖明王が釈迦仏を天皇に献上それに続き五月一日に次のような記事が。
「この日河内国泉郡の茅渟海に梵音(のりおと)がした。まるで、雷の落ちたような音だった。天皇は溝辺直を遣わし海中を探させた。すると、楠が浮かんでいた。天皇に献上すると仏像を2体作らせた。これが吉野寺に納められている樟(くすのき)」
吉野は、日本で古くから葛城山一帯で盛んだった、神懸かりの呪と伝来した仏教との接着点だった。
同時に巫呪(ふじゅ)者と優婆塞(うばそく)とが結合し、修験道か生まれた。
日本書紀」にある吉野寺とは現光寺、比蘇寺とも呼ばれた。
現在比曽にある世尊寺と言われる。
土屋文明は天武・持統が壬申の乱の前に潜んだのはこの寺ではなかったろうかと「続万葉紀行」で述べている。
役ノ゙小角は「続日本紀」によると葛城で育った。
この葛城山辺りは昔、巫呪集団の根拠地。
↑吉野と葛城は関係が深い、と。
 
次にこちらの本。
 

 
日本書紀に依れば九月三日、古人大兄皇子が蘇我田口臣川堀、物部朴井連椎子、吉備笠臣垂、倭漢文直麻呂、朴市秦造来津と謀反を起こした、とある。
九日後の十二日、仲間の一人吉備笠臣垂が中大兄皇子に自首。
謀反を密告。
これを聞いた中大兄皇子は直ちに菟田朴室古、高麗宮知に命じて兵を派遣。古人大兄皇子を討たせている。
事件で処断されたのは、自害した后達を除くと古人大兄皇子とその子供達だけ。
クーデター参加者の殆どは密告した垂を含め事件後に復権
↑嵌められたな。
 
649年3月24日、大化の改新の協力者、蘇我倉山田石川麻呂が自害。
これにより、石川麻呂の私財を没収。
蘇我倉山田石川麻呂自害事件の7,日前に左大臣阿部内麻呂が病死。
その結果孝徳天皇は左右大臣という二人のブレーンを1週間で失った。
↑もろ、暗殺。
 
日本書紀は即位した孝徳天皇が様々な詔を下して政策を打ち出し急ピッチで改進政治を進めている様子を記している。
その政治に対する熱意と力量に中大兄皇子鎌足らが危機感を抱いた。
密告を受けながら中大兄皇子が動かなかった事。
石川麻呂が孝徳天皇に対する弁明に拘った事。
中大兄皇子に対する忠誠心を置き土産に自害した事、
全ての疑問が氷解。
石川麻呂は孝徳天皇を擁立した鎌足らの「議はかりごと」を見破っていた。
石川麻呂が孝徳天皇に直接会って奏上したいと言い続けたのは、鎌足中大兄皇子らのはかりごと、即ち2人が期待する孝徳天皇への役割(自ら石川麻呂を断罪する事)を諭す事。
しかし、それが叶わない事を知った石川麻呂は中大兄皇子宛の書を残し自らの無実を表明。
それによって改新政権における中大兄皇子の立場、主導権が中大兄皇子にある事を示唆。
それは孝徳天皇の政治姿勢に対し自制を促す諫言でもあった。
日本書紀は石川麻呂の死を悲しんで亡くなった中大兄皇子の妃を「蘇我造媛」と記している。
前者は「持統称制前紀」に鵜野の母を「遠智娘」と言い、別名は美濃津子娘と記している。
もっとも、遠智娘は石川麻呂事件の2年後、白雉二年(651)に建皇子を産んでいる。
↑父親を殺した男と子作り出来る?
 
655年、飛鳥板葺宮で皇極が再び即位(重祚斉明天皇62歳。
中大兄皇子は入鹿を殺した時も即位を断念。
そして、孝徳天皇の死後も断念。
天皇の位を餌に2人を死に追い遣る汚れ仕事をやらされている。
鎌足に。
 
〈狂心の渠(みぞ)〉
斉明天皇が655年に62歳で即位した飛鳥板葺宮は嘗ての皇極天皇時代の宮殿。
入鹿がこの宮殿で暗殺されたのは10年前。
孝徳天皇を難波に独り残し飛鳥に戻ってきたその年(653年)中大兄皇子らは飛鳥河辺行宮に遷居。
鵜野は9歳に。
斉明天皇は小墾田に瓦葺の宮殿を造ろうと深山広谷に木材を求めている。
が、良い木材が集まらず、翌年、後飛鳥岡本宮を造営。
皇極天皇以前、夫(舒明天皇岡本宮が営まれたところで斉明天皇重祚後に造営した後の飛鳥岡本宮もその上に造られた事が判明。
ちなみにその後、壬申の乱を勝ち抜いた大海人皇子と鵜野が営んだ飛鳥浄御原宮もその上層地に造営された。
これまで伝飛鳥板葺宮跡として親しまれてきた一帯は舒明・皇極・斉明・天武(持統)の宮殿が重なって営まれてきた。
その名称が飛鳥京跡と変更された理由である。

持統天皇大化の改新の年、645年に誕生。
そこから、親戚縁者が次々に政争に巻き込まれ死んで行くのを目の当たりにして育った、と。

今日はここまで。

 

このあと、夫がスマホを交換したいとしつこく言うので渡す事に。

自分のアクオスのカメラ機能はずっと使用不可。

で、頼んでも無いのに先日SDカードだか何だかに画像データを落としていた。

その作業が面倒なのでカメラ機能に問題が無い自分のと交換してくれるそう。

夫は他にスマホを持ってるんだそう。

これまでもスマホを変える度に色んなデータが消えて事があるのだが大丈夫なんだろうか。

17時に夫にスマホを渡すので今日の投稿は早目にする事に。

そして、投稿はタブレットから。

夕食画像は撮影出来たら明日のブログに投稿。

さあて、夫はDSに脳味噌ハッキングされてるのか、悪魔くんが憑依しているのか、乞うご期待。

 

歩数計は6228。

充実した一日になりますように。

それにしても、タブレットでの編集のやり辛い事、この上無し。

一つ一つの作業に時間が掛かり糸電話時代思い出した。