2025/3/16日曜日
昨夜は夜中の1:30にドシン!ドシン!という爆音と屋外での男性による怒鳴り声で覚醒。
余りに騒音がしつこく、寝れなくなったので読書を開始。
昨日に引き続き、木本好信著「藤原仲麻呂」
藤原仲麻呂が近江へ逃亡したあとの経過。
孝謙太上天皇は真備の作戦によって仲麻呂に先んじて田原道より山背守日下部子麻呂と衛門少尉佐伯伊多智ら数百騎を急派。
勢多橋を焼き落とさせた。
仲麻呂は使者を先に派遣し近江国で兵馬を徴発しようとしていたが、この使者も造池使として近江国で池の修造に判官の佐伯三野と共に当たっていた淡海三船らに捕らえられた。
三船は756年に朝廷誹謗の罪で禁固に処された事があった。
三野は父の今毛人が前年四月に仲麻呂暗殺未遂事件に関わり九州に左降されている。
近江国庁を目前にしながら瀬田川の渡河も成らず、国庁内の仲麻呂派も捕縛された事から近江国庁での大勢の立て直しは不可能に。
仲麻呂は壬申の乱を意識しての事であろうか不破関から東国へ脱出しての反転攻勢も考えていた。
孝謙側もそのような危機感を持っていた事の証拠に、手下を美濃国に遣わし、壬申の乱の功臣で知られる村国男依の孫で仲麻呂に仕えた美濃少掾の村国嶋主をいち早く誅殺。
仲麻呂は計画を急遽変更し息子の辛加知が国守としている越前国府を目指し北上。
仲麻呂は予てより高橋氏を通じても越前,若狭国へ影響力を及ぼしていた。
しかし、孝謙側は越前国にも伊多智を急派。
辛加知を斬殺し越前国衙を抑え、新たに藤原継縄を国守に任じている。
それを知らない仲麻呂は途中の琵琶湖西岸の高島郡で前少領の角家足の宅に宿泊。
その臥屋の上に甕程の大きさの星が星が落ちたという。
ここで仲麻呂は同行していた天武天皇の孫で新田部親王の王子である氷上塩焼を「今帝」として天皇に擁立。
塩焼は塩焼王と称していた事もあり孝謙太上天皇の異母妹不破内親王の夫でもある。
そして、塩焼の即位を告知する太政官印を捺印した文書を諸国に散擲。
先の孝謙太上天皇の勅を用いず、太政官印を捺したこの勅に従うよう通達。
三関にも使者を派遣。
一、二の国から兵士を調達しようとした。仲麻呂が太政官印を持ち出した事に孝謙太上天皇も困惑。
後に、太政官印は内裏に納めるようにした。
辛加知が殺害された事を知らない仲麻呂は越前国を目指し北陸道に道をとり、まず、精兵数十人を先行させ愛発関の突破を図った。
愛発関は今の敦賀市南部の旧愛発村と高島郡マキノ町の福井・滋賀県境の有乳山付近にあったとされる関。
不破、鈴鹿と共に三関と呼ばれ、謀反人の東国への逃亡と東国からの反撃を防ぐ為のもの。
しかし、愛発関は固関使によって固守されていた。
精兵らは授刀の物部広成の防備に関を制圧する目的を達する事ができず退却。
愛発関を通り抜ける事が出来なくなった仲麻呂一行は陸路での越前行きを諦めて琵琶湖を船で湖北の浅井郡塩津に向かった。が、逆風に遭い船が漂流し沈みかかり、そのルートが、ここでも孝謙側に阻まれ8,9人が射殺された。
筆者は、もしかしたら仲麻呂は渤海への逃亡を考えていたので、と述べている。
理由は、仲麻呂が新羅征討を巡って渤海と友好な外交関係を結んでいた事。
天平宝字三年正月には渤海大使揚承慶ら、同七年正月には渤海大使・王新福ら使節を自邸である田村第で饗するなどしている。
彼らを頼って仲麻呂が渤海への逃亡を企てていた事の可能性は否定出来ない。
揚承慶らや王新福らも来日した時には越前国加賀郡に安置されているなど越前国加賀郡の津は渤海国との交流の玄関口。
犀川河口近辺の畝田・寺中遺跡からは「天平二年」「津司」などの墨書土器が出土。対岸アジア交流の中で重要な位置を占めていた(藤井 2010)
筆者はもしかしたら仲麻呂は渤海への逃亡を考えていたので、と述べている。
理由は、仲麻呂が新羅征討を巡って渤海と友好な外交関係を結んでいた事。
天平宝字三年正月には渤海大使揚承慶ら、同七年正月には渤海大使・王新福ら使節を自邸である田村第で饗するなどしている。
彼らを頼って仲麻呂が渤海への逃亡を企てていた事の可能性は否定出来ない。
揚承慶らや王新福らも来日した時には越前国加賀郡に安置されているなど越前国加賀郡の津は渤海国との交流の玄関口。
犀川河口近辺の畝田・寺中遺跡からは「天平二年」「津司」などの墨書土器が出土。対岸アジア交流の中で重要な位置を占めていた(藤井 2010)
仲麻呂が越前国府で準備を整え、北上して加賀郡の津から渤海を目指す事もありえた。
天平十二年に大宰府で決起した藤原広嗣が敗れて知賀島より躭羅島(済州島)に逃亡した事は良く知られた。
〈上皇軍との決戦〉
行く手を阻まれた仲麻呂一行は来た道まで取って返した。
が、高島郡三尾埼(高島市明神崎か)まで南下したところで孝謙軍と決戦に。
戦いは壮絶で牛剋(正午)より申剋まで四時間に及んだ。
仲麻呂軍は奮闘し孝謙軍は劣勢になったが「討賊将軍」藤原蔵下麻呂の率いる援軍が駆け付けると戦況は一変。
仲麻呂軍は総崩れとなり勝敗は決した。
仲麻呂を始め一族郎党や同行していた氷上塩焼、官人34名が斬られた。
その中で六男の刷雄のみ、若い時より仏道を修行していた事を理由に隠岐への流罪で許されている。
最終的に斬刑は三七五人(「日本後紀」延暦十八年二月乙未条)
遅れて十二月に十三人が処刑(「日本霊異記」下)
岸氏は「続日本紀」の争乱後の任官叙位の記事を子細に検討。
位階を剥奪されたものの後に復位された官人の名前を明らかにされた(岸 1969)それによると従五位下・外従五位下以上に限っても二三人も居る。
河合ミツ氏は乱後、僅かの間に五〇名を越える国守・介の遷替があったとしている(河合 1978)
仲麻呂の首級は十八日になって平城京の孝謙太上天皇のもとにもたらされた。
二十日の詔では、
「道理に反したよこしまな仲麻呂は詐りねじけた心で、…以前に奏上した事は事毎に偽りと諂(へつら)いであった」のだと言っている。
天平勝宝四(752)年四月、東大寺大仏開眼の斎絵の夜、仲麻呂邸に還御してより、暫くここを御在所とするなど蜜月時代もあった。
↑仲麻呂のやりたい放題はこれで終焉を迎えた、と。
このあと、騒音が収まってから再就寝。
7時半に起床。
外は雨。
洗濯と水遣りはお休み。
思い立って、孫のズボンを手縫いで作る事に。
きっかけは昨日の出来事。
長男一家が帰る間際に孫のズボンがびしょ濡れに。
着替えは持って来ていない、と言う。
で、昨夜は気温が低くて寒かったのもあり、どうやって帰るかで揉めた。
結局、バスタオルを巻いて帰って行った。
前も同じ様な事があった。
その度に揉める。
何で、着替えを持ち歩かないんだろう?
何で、うちに予備の服を置いて置かないんだろう?
と、ずっと疑問に思っていた。
で、手縫いで作る事にした。
自分の着なくなった長袖の服の袖を利用して。

春秋用と冬用と2つ作成。

11時過ぎに終了。
次に、パン作り。
昨日から常温発酵させている酒粕酵母パンを二次発酵させてから焼いた。

12時に昨夜以来の食事。
残り物で済ませた。
長女と次男は焼き立てパンを美味しい〜と言って食べてくれた。
相変わらず膨らみが少ないが、、、。
引き続き、夕食の下ごしらえ。
サラダのみ撮影する余裕があった。

サワークリームドレッシングで和えて美味しく頂いた。
他に、豆乳スープと、大鍋に帆立ひもと海老のトマトソースパスタを調理。
スパゲッティは700gを2つの鍋に分けて茹でた。
大鍋、もう一つ必要やな。
17時に長男一家が到来。
上の孫がレインコートを着て来たが、雨に濡れたのかズボンがびしょ濡れに。
いつも通り、着替えを持参していない。
早速、作ったばかりのズボンが活躍(笑)
ぴったりだった。
お皿は長男と嫁が洗ってくれた。
自分はありがたくお風呂へ。
お風呂から出ると長女が嫁の肩をマッサージしていた。
それが大好評で、全員やって貰った。
次男以外は皆肩が凝っている、と言われた。
マッサージ大会は20時過ぎまで続いた。
長男一家が帰ったあとは、読書と調べ物をする事に。
歩数計は4638。
久々の裁縫仕事が楽しかった。