arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1280日目と畑と藤原仲麻呂②

2025/3/15土曜日

5時半に起床し、青梅ジャムとパンとサワークリーム作り。

合間に、洗濯とベランダガーデニングの水遣り。

9時過ぎに畑へ。

 

久しぶりに訪れると、ブロッコリーが大きく成長。

4個収穫した。

そのあとは雑草取り。

めっちゃ育っていた。

11時過ぎに帰宅後、暫し休憩。

12時に昨夜以来の食事。

納豆ご飯と味噌汁と鮭、目玉焼きを食べ満腹に。

丁度食べ終わった所に、夫と長男と上の孫がアポ無し到来。

いつもの事。

あるものでお昼ご飯を食べて貰った。

自分は、引き続き台所仕事。

梅ジャムの味付けをしたり、レアチーズケーキ用の棒寒天を煮たり、土台のクラッカーを粉々にしたり。

合間に孫と戯れたり。

戯れ過ぎて、気付いた時には寒天が固まってゼリーになっていた。

ダメ元でミキサーで他の材料と混ぜ型に流し込んだ。

引き続き、夕食の用意。

昨日食べた鶏と芋のナゲット風な奴が美味しかったので再び作った。

鶏肉をタタキ、サイコロ状の芋と片栗粉と塩を混ぜるだけ。

次男が鶏肉をたたく作業を手伝ってくれた。

今日は里芋と人参と牛蒡バージョンも作った。

あとは、ホットプレートに並べて焼くだけ。

間にブロッコリーの茎も。

自分はこんがり焼いたブロッコリーの茎が大好き。

17時過ぎに夫と長男達が帰って来た。

この、ツマミにぴったりなおかず達ともろみ汁でお腹を満たした。

後片付けが済んだらデザートタイム。

レアチーズケーキは予想通り固まってなくて、ゆるゆるに。

が、孫は先週のきちんと固まったレアチーズケーキより、今日のが美味しかったようで、お皿を舐める勢いで食べていた。

嫁が言うには、先週のはレモン汁が効いて孫には酸っぱすぎたかも、なんだそう。

確かに今日のはレモン汁入れてなかった。

嫁は先週のレモンが効いた方が好きだと言っていた。

中庸を取る事に。

あと、寒天仕事の時は集中して作らないと、と学んだ。

ま、寒天ゼリーが出来たのは嬉しかった。

小学生の時、家庭科の調理実習で作った牛乳寒天がとっても美味しかったのを覚えている。

また挑戦しよう。

 

19時過ぎに長男一家が帰ってから読書と調べ物。

昨日に引き続き木本好信著「藤原仲麻呂

 

天平十五年五月に皇太子阿部内親王孝謙天皇)が五節の舞を舞った事により聖武天皇は叙位を敢行。
この叙位で仲麻呂は從四位に昇叙と共に参議に任ぜられた。

從五位下への昇叙から九年、従五位上からは四年という異例の出世。
兄豊成でも14年と5年掛かっている。

諸兄は21年と5年。

光明皇后の期待が如何に大きかったか。

これで仲麻呂は漸く太政官の一員として政治に参画する事に。

この直後に私田の所有を認めた墾田永年私財法が施行されている。

この施策の主唱者を誰と見るかであるが、岸氏は仲麻呂敗死直後にこの法律が寺院と在地農民を除き一時禁止された事を考慮。仲麻呂であった可能性は多いとされる(岸 1969)
難波宮に移ったものの聖武天皇は744年2月24日に突然、紫香楽宮行幸

続日本紀」はこの時、元正太上天皇左大臣橘諸兄難波宮に残ったと記す。

この時太上天皇64歳。

諸兄60歳。

その2日後に諸兄が太上天皇の勅を受け「難波宮を皇都」と宣言。

この事実は紫香楽宮にある聖武天皇+光明皇后+藤原仲麻呂vs 難波宮を皇都とする元正太上天皇+橘諸兄らの対立が現出。

↑分断。


続日本紀天平宝字六(762)年六月三日条には「朕が御祖太皇后の御命以て朕に告りたまひしに、岡宮に御宇しし天皇(草壁親王)の日継は、かくて絶えなんとす。女子の継には在れども嗣がしめむと宣りたまひて、此の政行ひ給ひき」とある。
↑なんで草壁親王の皇統?天武天皇じゃなくて?

大納言仲麻呂の宣の最も早い例は天平勝宝元(749)年九月十七(笑)日。
光明・仲麻呂政治体制とは光明皇太后紫微中台)ー仲麻呂紫微令)ー石川年足(紫微大弼)、仲麻呂(大納言)ー年足(左大弁)というのが基本的な構造。
仲麻呂による吉備真備いじめ
天平勝宝二年正月十日条は真備を左降し筑前守とすると記している。
②同年九月、真備を入唐副使に任命。

↑60歳過ぎてるけど、負けるな!真備!
③副使が二名は異例。
④副使真備の位階(従四位上)が大使藤原清河(従四位下)より上階なのも異例。
⑤副使以上の3名を内裏に召すも真備のみ加叙無し。
天平勝宝四(752)年四月九日、大仏の開眼の際、一万人の僧侶が参加し盛大な設斎大会が実施された。

宴会等祝賀行事のあと、孝謙天皇光明皇太后は左京四条二坊にあった仲麻呂の田村第に同年十一月まで滞在か!
↑半年以上?
仲麻呂光明皇后孝謙天皇と同じ屋根の下に半年?

 

十一月八日には橘諸兄聖武太上天皇を邸宅に迎えし肆宴を行った。
橘諸兄致仕(隠居)から3ヶ月後の天平勝宝八(756)歳五月二日、聖武天皇崩御光明皇太后はその七七回忌にあたる六月二十一日に遺愛の品々を東大寺に奉献。

奉献した約600点の宝物とその材質・形状・製造技法などを注載した目録が有名な東大寺献物帳
↑この時、しれっと治葛や雄黄も献納したか。

自分が持ってたらやばいから。
聖武天皇が愛用してた事にした、と。

天平勝宝九歳正月、聖武太上天皇のあとを追うように諸兄も逝去。

聖武太上天皇新田部親王道祖王を皇太子に、と遺詔。
新田部親王天武天皇の末子。

天武の死に際に生まれたので後に母の五百重娘を娶った不比等の子ではないかと言われている。

もろ、藤原氏の血統。
しかし、道祖王は素行が悪いと廃太子に。仲麻呂のお家に住み、亡き息子の妻だった寡婦諸姉と懇ろになっていた大炊王立太子
聖武太上天皇没後、内印(御璽)と駅鈴を保持していた光明皇太后橘奈良麻呂の変の際、2度、詔を発した。
紫微内相仲麻呂が軍事権を掌握しているので、クーデターに際し奈良麻呂らが兵士を動員するのは無理。

私兵を持つ秦氏の助力を頼んだ。

仲麻呂は軍事権を行使し反乱を制圧。

百済王敬福・船王等を派遣し詰問。

結果、黄文王道祖王大伴古麻呂羅多治比犢養、小野東人、賀茂角足ら中心人物は拷問の上、撲殺された。
即位した淳仁天皇天平宝字二(758)年八月、仲麻呂を大保に任命。

大保とは右大臣を唐風に改称。

太政官の首班である大保に任じられた事により名実共に藤原仲麻呂政権が成立。
和銅初年(708)年以降は、厳禁されていた「貨幣の鋳造権」と天平九(737)年以降禁止されていた私稲を出挙する権限を得た上に「恵美家印」を用いる事までゆるされている。

これは私印としては勿論、公印としての効力を認知。
淳仁天皇、何しとんじゃ〜。

貨幣の鋳造権を家臣に与えるとか。

仲麻呂が好きなだけお金刷れるやん!

ロスチャイルドかよ。

それが、やばい事だと気付いた孝謙太上天皇は素晴らしい✨️


天平宝字四(760)年六月七日光明皇太后崩御
この年三月から四月に掛けて16カ国で疫病流行。

特に山陽道沿いの国々。
同年八月七日、淳仁天皇藤原不比等の功徳に対して近江国12郡を封戸。

同時に仲麻呂が父武智麻呂に太政大臣を贈与。

仲麻呂は更に近江への支配を強化。


藤原仲麻呂の乱の仕掛け人は孝謙太上天皇
続日本紀」によると孝謙太上天皇少納言山村王を遣わして中宮院の(淳仁天皇の手許にある)鈴・印を収めた。

恵美押勝藤原仲麻呂)はそれを聞き息子の訓儒麻呂に奪い返させた。

それを聞いた孝謙太上天皇は授刀少尉坂上苅田麻呂・将曹牡鹿嶋足を遣わし訓儒麻呂を射殺。

再び御璽・駅鈴を奪取した。
この鈴印奪取計画は吉備真備が九州から帰京したこの年の正月頃から考えられ始め、仲麻呂娘婿で授刀衛長官の藤原御盾が六月に没してから授刀衛を孝謙派の勢力下に置ける事に。
御璽・駅鈴の争奪戦という緒戦に破れた仲麻呂平城京から近江国へ逃亡。
授刀衛は孝謙側だったが、まだ、中衛府や令制五衛府などの軍隊は仲麻呂の統制下にあった。
角田文衛氏の分析によると、そのまま京内で戦ったら仲麻呂有利の可能性が高かった、と指摘。
敗因の一つは、近江への脱出。
そして、淳仁天皇を帯同しなかった事。
早速、孝謙太上天皇仲麻呂を謀反人と布告。
〈乱の経緯〉
9/11の夜、仲麻呂は宇治より相坂を越えて父祖の代からの基盤、近江へ。

今日はここまで。

 

歩数計は9624。

充実した一日だった。