2025/3/14 金曜日
5時半に起床し米麹の品温をチェック。

25.6度。
昨夜から発酵機のスイッチをオフにして寝たので低め。
でも、麹菌は十二分に繁殖。
出麹し、発酵機の清掃。
米麹のストックが出来たので暫くお休み。
次に、長女の朝食とお弁当のおかず作り。
洗濯とベランダガーデニングの水遣りを済ませたら自転車て買い物へ。
10時半に帰宅後、食材を収納したら、読書と調べ物。
今日からは木本好信著「藤原仲麻呂」
昨日まで読んでいた大伴旅人・家持本と同じ著者。
読んでいて、良い復習にもなった。
〈大炊王の立太子の政治的背景〉
大炊王は天武天皇皇子舎人親王第七子。
大炊王は733年に生まれるも2年後の735年には父の舎人親王が薨去。
蔭叙されてもおかしくない21歳になった754年になってもその記録は無い。
↑「21歳で蔭叙」という情報は、自分が生没年不詳の人物の年齢を推定するのに非常に役立っている。
この本を読んで知った。
「即位前紀」には仲麻呂長子真従の寡婦栗田諸姉を通し仲麻呂と擬制的親子関係にあったと推察。
王が寡婦諸姉を妻として仲麻呂の田村第に居住するようになった頃、仲麻呂は「紫微中台」で権力を掌握。
王の擁立計画が描かれた。
仲麻呂は聖武天皇の遺詔を受けて皇太子となっていた道祖王の廃太子を進めた。
ここで大炊王が登場。
仲麻呂は左大臣藤原豊成・中務卿藤原永手の推す塩焼王、摂津丈夫文室珍努・左大弁大伴古麻呂の推す池田王を退け光明皇后の力添えもあり大炊王を皇嗣として立太子させる事に成功。
しかし、この独断的な道祖王廃太子と大炊王立太子は黄文王・池田王・塩焼王らの擁立を目指す橘奈良麻呂と大伴古麻呂らを中心とする反仲麻呂官人の間に燻り続けた不満を一気に行動へ押しやる結果に。
大炊王は孝謙天皇の政事の重圧に堪えきれず、また光明皇太后に仕える為、という2つの譲位理由を受けて、帝位に就いた。
淳仁天皇は舅の仲麻呂に恵美押勝という名前を賜った。
天平宝字二年(758年)に淳仁天皇に譲位した孝謙上皇は天平宝字四年(760年)光明皇太后が崩御すると、母の束縛から解き放たれ政治に意欲を見せるように。
そして、淳仁と間隙が生じた。
仲麻呂娘婿の藤原御盾第や仲麻呂第を訪れた。
天平宝字六年(762年)五月頃から孝謙上皇に道鏡が近侍。
五月二十三日、淳仁と孝謙上皇との間に亀裂が生じ急遽二人は平城京に還御。
淳仁は中宮院に。
保良宮に於いて淳仁が孝謙上皇に対して言ってはいけない事、してはいけないことをしたそうな。
「続日本紀」天平宝字八年九月壬子条に「時道鏡常侍禁掖、甚被寵愛。押勝患之懐不自安。乃諷高野天皇」と宝亀三年四月丁巳条道鏡薨伝に「従幸保良、時侍看病稍被寵幸。廃帝常以為言、与天皇不相中得」とある。
淳仁は上皇と道鏡の事を言ったと思われる。
兎に角、孝謙上皇は帝権の分離を宣言した。
孝謙上皇帝権分離宣言は六年六月(762年)が、依然帝権を象徴する内印と駅鈴が淳仁のもとにあったので行政機構として淳仁=仲麻呂体制が機能。
しかし、最終的には孝謙上皇が草壁親王直系である皇権を発揚。
武力をもってして鈴印を奪取する事に成功。
仲麻呂は鈴印争奪に敗れるとその日の夜に近江に逃亡。
仲麻呂は淳仁を帯同出来なかった事が最大の敗因。
淳仁は草壁親王直系の威信に圧倒された?
仲麻呂が近江で斬殺されたあと、淳仁は孝謙派遣の和気王(舎人親王孫)率いる兵数百に囲まれた。
そこから淡路島に連行され幽閉された。
この時、舎人親王系一族30人中29人が処断。
舎人親王は長屋王の変の対応で知られるように藤原氏に近い存在だった。
↑淳仁天皇が仲麻呂にロスチャイルドみたいに通貨発行権を与えたのを知った孝謙上皇は覚醒(後述する)
孝謙上皇はそのヤバさがわかるので、ゴルァ!と淳仁天皇から印字(御璽)と駅鈴を取り上げ行政権と軍事権を得た。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書と調べ物。
17時半から夕食とおやつのクッキー作り。

酒粕クッキー、玄米ご飯、味噌汁、メカブととろタラコ、サラダ、ポテトチキン、昼の残りの豚と蓮根の黒酢炒め、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は5879。
充実した一日だった。