arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1277日目と大伴氏②

2025/3/12水曜日

5時半に起床し米麹の品温をチェック。

32度低めなので発酵機の設定温度を35度に上げてあと2時間やることに。

雨予報なので洗濯はお休み。

次に、長女の朝食とお弁当のおかず、パン作り。

昨夜から浸水させている、次の米麹作り用の米をザルに。

7時半には出麹。

後で味醂の仕込みに使うことに。

 

9時半から読書と調べ物。

昨日に引き続き木本好信著「大伴旅人・家持とその時代ー大伴氏凋落の政治的考察ー」

第一節 橘諸兄政権の実体ー崩壊過程を中心としてー


天平九年(737)藤原四兄弟天然痘で相次いで死亡。
藤原四子体制」の崩壊。
代わって台頭したのは前年に臣籍降下した葛城王、則ち橘諸兄
橘諸兄栗隈王の子の美努王橘三千代との間の息子。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E8%AB%B8%E5%85%84 
諸兄は一族の県犬養広刀自と聖武天皇の間に生まれた安積親王の擁立を目論んだ。
これに対し、光明皇后藤原氏は、巧みに「皇后」所生という事実をアピールし長姉安倍内親王孝謙天皇)を立太子させる事に成功。
僧玄昉と吉備真備をブレーンに政治に独断を振るいつつあった諸兄に、藤原氏の反撃は天平12年式家宇合の長子藤原広嗣によって試みられたが諸兄を信頼する聖武天皇吉備真備ら諸兄側近擯斥の上表を斥け広嗣は大野東人らによって誅殺される。
聖武天皇、やるねぇ~。

ちなみに聖武天皇文武天皇不比等の娘宮子との間の子、とはなっているが、宮子は紀州の海人の娘で血は繋がっていない。
反乱の鎮圧で安定化した諸兄政権と、16歳を迎えた安積親王の存在によって皇太子と雖も女性と言う劣性条件を帯する阿部皇太子の地位は必ずしも安定したものではなくなってきた。
しかし、藤原氏にとって幸運な事に天平16年正月、諸兄の期待した安積親王は脚病によって急死。

阿部皇太子の地位は守られた。

そして、天平感宝元年(749年)7月、天平17年、難波で危篤に陥り病気の回復が思わしくなかった聖武天皇は遂に譲位。
↑安積親王が亡くなった翌年に毒盛られたか。

藤原氏に逆らったから。

この頃、唐から遣唐使によって大量の毒物がもたらされているがキロ単位で消費されている。

https://acrobat.adobe.com/id/urn:aaid:sc:AP:af1a32f5-d31c-40a5-9600-d49254ae73a3


代わって阿部内親王が即位。
聖武天皇の在位中も病気の天皇に代わり大政に関与する事の多かった光明皇后が娘の阿部内親王の即位により、より深く大政に関与。

孝謙天皇に代わって専断する様相を見せてきた。

その為の執政官司として改組した「紫微中台」が創設された。

↑これが、大問題。

日本史の授業で必ず教えて欲しいワード。

 

光明皇后の信頼を得て藤原氏を代表する地位を確固たるものにした甥の藤原仲麻呂紫微中台に依拠し執政権を確保。

この頃より左大臣諸兄、右大臣藤原豊成が位署する文書が見えなくなり以後は仲麻呂政権崩壊時まで仲麻呂を宣者とする「奉勅上宣官符」などが専らとなる。
長屋王「ほらな、言ったやろ?皇族じゃない者を皇后にするとこうなるんよ」


「光明 仲麻呂体制」の台頭が始まる最初の契機は天平18年3月の藤原仲麻呂民部卿から式部卿への選任。

勿論、光明皇后による。

続日本紀天平二十年三月壬辰条に六人の叙位が。

うち四人は女王の叙位。

あとは藤原豊成仲麻呂南家兄弟の昇叙。光明皇后による藤原氏復権運動は天平17年9月に聖武天皇難波宮で不予になってから。

聖武天皇藤原氏を嫌い難波宮に引っ込んだ。

 

平城、恭仁両京を固守させたり孫王の全てを呼集し鈴印を取り寄せたり、諸寺への祈祷、出家、放生の措置などを取っている事を見ると聖武天皇の症状は危急迫る物。

古代に有っては皇后も皇太子と共に天皇に変わりうるか存在であることは指摘されている。

が、現実にそれを行ったのは持統女帝のみだった。

光明皇后がそれに続いた。
藤原氏の諸兄政権への反撃は諸兄の有力ブレーンだった僧玄昉に。
天平16年9月には僧鋼印を召し上げ大臣の所有にし、僧鋼の政も官に申してのち、その報を待て、という処分を僧玄昉にby 仲麻呂+豊成+光明皇后
天平17年正月、藤原氏行基を大僧正に登用。

聖武天皇が不予となって2ヶ月後に玄昉は九州に異動。

現地で怪死した。
徐々にではあるが確実に圧してくる藤原氏勢力に対し諸兄は、「万葉集」巻十七、三九二二ー六番歌の題詞にも見える天平18年正月大雪の日に、諸兄が廷臣を率いて元正太上天皇の御在所に参入。

雪掃きに奉仕した。
↑なんて素晴らしい✨️


天平18年は元正太上天皇+諸兄vs光明皇后+仲麻呂で凌ぎを削りあった時期。
それを明確に反映しているのがこの年の補任の多さ。
続日本紀」によれば補任の記事は24回。60余人に及ぶ。
直木氏によると雪かきに参加した諸兄派の官人が地方官として転出している傾向が強い。
↑Wao!


藤原氏の攻勢は十九年になっても(勿論)続き三月には真備が春宮丈夫から追われ、代わりに仲麻呂下僚の石川年足が就任。

諸兄と皇太子阿倍内親王を繫ぐ糸が断ち切られた。
天平二十年四月に元正太上天皇崩御した事は決定的。
天平二十一年二月、広嗣の乱に縁坐した事もある大倭小東人が摂津亮に、紀飯麻呂がさ大倭守に、共に仲麻呂派の官人が難波京平城京の両京を管する職に。
聖武天皇が阿部内親王に譲位したというのも光明皇后の促すところがあった。
元正太上天皇は譲位に反対であった為、その崩御光明皇后にとって待ちに待った阿部内親王の即位に。
母として大政に深く関わり専権を振るえる事に。
まずは皇后宮職を拡大させた「紫微中台」を創設。
紫微中台」創設以後の「奉勅上宣官符」などで宣者の知られる物の五例全てが仲麻呂に依るもの。

それが仲麻呂の「紫微中台」在任中の天平勝宝期に限られている事から仲麻呂太政官構成者の大納言としてでなく「紫微中台」の長官紫微令として太政官符の作成、発給を命じていた。

この事から事実上太政官の機能は「紫微中台」にとって代わられた。
左大臣諸兄と右大臣豊成を差し置いて大納言仲麻呂が政策を決めていた(驚)

今日はここまで。

 

11時から次の米麹用のお米を蒸す作業。

その間に酒粕酵母パンが焼き上がった。

前回よりは少し膨らんだ。

11時45分から蒸し上がった米に種麹をまぶす作業。

発酵機は35度に設定。

その間、次男が大阪から買ってきたお土産の肉まんを蒸す作業。

12時に昨夜以来の食事。

納豆ご飯も食べたが肉まんも美味しく頂いた。

引き続き、味醂仕込み用のもち米を蒸す作業。

40分後に見ると、まだもち米が固い。

何せ8合分だからしゃーないか。

更に20分追加で蒸した。

14時に完成。

そのあとは再び読書と調べ物に没頭。

 

17時半から夕食作り。

お土産の餃子、長芋とタラコ、玄米ご飯、スープ、昨日のサラダ、パンとチーズ、朝の残り、ウォッカ梅酒ロック。

雨が続き、余り出かけないのでお腹も空かない。

残り物メインの食事に。

後片付けを済ませたら営業終了。

読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は4875。

充実した一日だった。

※今日もブログ編集時にハッキングの嫌がらせ。

左のラインのとこでコピーして右のはてなブログ画面にペーストしようとクリックすると画面が消えるんよ。

近所に住むCIAかM16かモサドの下請け工作員が58歳3カ月のオバハンのスマホに張り付いて、タイミング見計らってやっとるんよ。

で、はてなブログを再起動すると、この、画面。

何が楽しくて58歳3カ月のオバハンのブログ編集にちょっかい出してんだか。

わいの事好き😍なんか?

何の為に生まれて来たのか。

何をして生きるのか、問われてるで。