2025/3/11火曜日
まずは、2011年3月11日の、悪魔が好きな11日に起きた東日本大震災で亡くなられた犠牲者とその遺族に哀悼の意を捧げる。
悪魔崇拝の儀式の一貫として行われた、この未曾有の震災に気付いた人は抗議の意を表明して欲しい。
抗議の意を表明しても亡くなった人は還って来ない。
けれど、次の似たような儀式が行われるのを阻止する為にも抗議の意の祈りを捧げて欲しい。
奴らは祈りに弱い、と何処かで読んだ。
第二次世界大戦後、焼け野原の日本で人々から自然に発せられた祈りに悪魔達は参ったそう。
日本は古代から、何かってーと、天皇を始め僧侶達が祈祷していたけど、その行動は下手な爆弾より効果覿面だったのか、と。
7時に起床。
目覚まし時計をセットするのを忘れた。
長女は残り物で朝食とお弁当を済ませていた。
まずは、米麹の品温をチェック。

36.3度。
念の為、発酵機のスイッチはオンのままにした。
次に、おやつのチョコブラウニーを調理。
その間に洗濯や水遣り、夫の昼食の用意。
寝坊したので11時から読書になってしまった。
今日からはこの本。

p.2の「序にかえて」から。
長屋王、橘諸兄に代表される皇親、旧氏族大伴・多治比・佐伯氏。
第47話 長屋王の馬を寧楽山に駐めて作りし歌(1)
佐保過ぎて 奈良のたむけに 置く弊は
妹を目離れず 相見しめとそ

https://kakuyomu.jp/works/1177354054888007402/episodes/1177354054888520534
磐(いは)が根(ね)のこごしき山を越えかねて哭(ね)には泣くとも色(いろ)に出(い)でめやも
巻三(三〇一) ----------------------------------------------- 岩のけわしい山を越えかねて心で泣くようなことがあっても顔には決して出すものか。

http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu3_301.html
奥山の菅(すが)の葉しのぎ降る雪の消(け)なば惜(を)しけむ雨な降りそね
大伴安麿呂(旅人父)

https://bonjin5963.hatenablog.com/entry/2023/04/28/000000
中納言安倍広庭卿(あべのひろにはのまへつきみ)の歌一首
児(こ)らが家道(いへぢ)やや間遠(まとほ)きをぬばたまの夜(よ)渡る月に競(きほ)ひあへむかも

http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu3_302.html
広庭の中納言帯任期間によると神亀四(727)年十月から天平四(732)年二月までの間に詠まれたか。
ちなみに長屋王の変は729年2月。
式部卿藤原宇合、衛門佐佐味虫麻呂、佐衛士佐津島家道、右衛士佐紀佐比物など軍人官僚らが六衛府の兵を率いて王の邸宅を囲んだ上で知太政官事舎人親王、大将軍新田部親王、大納言多治比池守、中納言藤原武智麻呂、右中弁小野牛養、少納言巨勢宿奈麻呂らが王の罪状の糾問を行い、その最中多治比県守、大伴道足、石川石足ら旧氏族の代表とも言える人達が新しく「権りの参議」に昇任したのを始め、政府部内にあっての主要官人は結果的に見れば藤原氏の党与となり、それに沿う行動を取っている。このような政治状況にあって議政官でこの時長屋王の自尽に関与していないと思われるのは広庭と房前(笑)、太宰府にあった旅人の三人だけである。
大伴旅人太宰帥補任は神亀五年正月。
筑紫に於いて旅人を中心に催された和歌の宴が佐保の長屋王宅に繰り返された詩宴の、謂わば地方版だったか。
天平二年正月の旅人の家での梅花の宴の時の歌三十二首の歌序は長屋王が新羅の客を饗した詩宴の詩序とも共通。
佐伯氏と共に武門の家柄であり政界に多くの一族官人を配する大伴氏の統領としての旅人の政治的影響力を藤原氏が警戒した。長屋王が左道を学んで国家を傾けようとしたとして謀反の罪に問われ吉備内親王を始め膳夫王ら妻子と共に自尽した直後、王に与したとして、上毛野宿奈麻呂ら七人が配流に。
これらの他に90人もの官人が通じていた事が知られる。
議政官の中にも王に近い旅人や広庭が居た事を含めて考えると王は政界にあって孤立した存在では無かった。
↑むしろ、人望の厚い優れた政治家だったのでは。
「続日本紀」を読んでいると、ある時期から数々の優れた政策が天皇に上奏されてている。
他に類を見ない政策立案者。
しかも、内容が民に寄り添っていた。
そりゃそうなんだけどね。
民に寄り添って、民に頑張って租庸調納めて貰わんと自分らもおまんま食べれないから。
民に寄り添わない政治の方が信じられん。
自分らが食べれなくなる。
その長屋王が文学に関心と理解を示し、且つ、関与した事は従来良く言われてきた。
橋本政良氏は「懐風藻」を、罪人として抹殺された王を関連の歌を掲載する形で間接的にその冤罪を雪がんとして成立したものではないか、とした。
川崎氏も「懐風藻について」で同様の事を指摘。
「東征伝」も同様の性格を有する、としている。
中でも「万葉集」についてはその性格が一層顕著。
橋本達雄氏は養老末年から神亀に掛けての僅か4、5年の間に赤人らの宮廷歌人が集中し忽然と姿を消しているのは長屋王の施政方針と極めて密接な関係。
↑長屋王が太政官長官として活躍した時期のみ赤人らは活躍出来た、と。パトロンの死と共に活躍の場が無くなった、と。
長屋王は父高市皇子を首班とした白凰の皇親政治への回帰という意識から「古万葉集」(巻一、二の年月の明記されていないものの総称)を企画したとも言われる。
先述の四首と同じ巻三には四四一番歌の「神亀六年巳巳、左大臣長屋王に死を賜ひし後、倉橋部女王の作る歌一首」としての「大君の命怨み大殯の時にはらねど雲がくります」、続く四四二番歌に王の息子「膳部王を悲傷ぶる歌一首」としての「世間は空しきものとあらむとそこの照る月は満ち闕けしける」の歌のように、王の悲劇を悲しむものが見えている。
犬養孝氏はこれらの歌には藤原氏に抗しえぬ者の悲命を悲しむ抑えられた鬱情が見られるといわれる。
また、犬飼公之氏は巻六の第一部の「巻頭歌群」(九〇七ー九四一番歌)は謹粛な行幸歌で一括された成書。
これらは長屋王首班体制時代の歌を収載。行幸は長屋王の総知によるものと思われる事、綴目が王の実子である膳部王の歌で纏められていることなどから王の追悼の性格を持つものと考えられている。
長屋王は漢風による文治主義を建前としながらも学芸文化人への賞賜をはかり、右大臣就任直後には学芸の士を選りすぐり東宮に侍せしめるなど、佐保の邸宅は文芸サロンとなっていた。その中で王を始め境部王、背奈王行文、刀利宣令、安倍広庭、吉田宣、山上憶良、土師百村、山田三方、佐為王、紀清人らは「万葉集」に歌を持っており、長屋王と「万葉集」に繋がる官人は王の横死後も相当数居た。
高野氏なども「古万葉集」の編者をこれらの人達の中に求めているが至極当然。
↑この本を読み始めて良かった、と思ったのは長屋王宅が「佐保」にあったという事を知れた事。
「佐保」て、古代からキーワードよな。
今日はここまで。
12時半に昨夜以来の食事。
午後も読書と調べ物。
17時半から夕食作り。

玄米ご飯、白菜と豆腐の酒粕コンソメスープ、しめ鯖、サワークリームポテトサラダ、豚小間と玉ねぎの生姜焼き、昼の残りの炒め物、フレンチトースト、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は5955。
充実した一日だった。
ブログ編集中にいつもこんな感じで妨害される。

アメリカのラトクリフCIA長官が全職員に退職勧奨とのニュースを見た。
が、奴らは名前を変えて新組織を変えてしれっと活動を続ける。
あと、やってるフリ、仕事しているフリも得意。
兎に角、あの手この手で日本人を殺しに掛かってる。
嘘だと思うなら「日本人 超過死亡」で調べてみ?