arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1273日目と葛城氏⑨

2025/3/8土曜日

5時半に起床し豆麹の品温をチェック。

久々の40度越え。

昨夜から発酵機のスイッチはオフなのにこの高温。

麹菌の発熱力の凄さよ。

そのまま出麹。

続いて、夕食用のおでんの仕込み。

鰹出汁と昆布出汁を取る所からやった。

そして、今季最後の醤油の仕込み。

↑ちなみに、塩450gてこんな感じ。

こんなに塩を山盛り入れるのに、奴らは定期的にカビ菌仕込みに来る。

6瓶目の仕込み完成。

右側2つは1年前に仕込んだ醤油。

奴らが定期的にカビ菌を仕込みに来るので、ついでに撹拌。

11時からは、米麹作り。

昨夜から浸水させている米を鍋で40分蒸したら、40度以下になるのを待って種菌をまぶす作業。

まぶしたら、パイレン布、晒し布の順に包み発酵機内へ。

30度設定にし様子を見る事に。

12時に昨夜以来の食事。

午後は読書と調べ物。

 

昨日に引き続き平林章仁著「謎の古代豪族 葛城氏」


「記」開化天皇段では開化天皇と葛城之垂水宿禰の娘・鸇比売(わしひめ)との間に生まれた建豊波豆羅和気王を忍海部造氏・稲羽忍海部氏らの後と伝えられる。
葛城之垂見宿禰葛城襲津彦らとの関係は不明。
系譜伝承の信憑性も定かでない。

忍海造氏が葛城を強く意識していた事は確か。

忍海造氏は葛城氏による天皇家外戚としての地位の継承者とする考えもある。

忍海造氏だけでなく葛城直(當麻倉首)氏も葛城氏の権力機構の構成員だったこともあり、葛城氏の滅亡後に天皇家外戚としての地位の継承を一時的に認められたのでは、と考えられる。
「記」に見える當麻倉首という氏姓に関わり、葛下郡當麻郷の地域に倉瀬・井倉・今倉・古今倉等「クラ」関係古地名が集中的に分布。

大和王家のクラの管理に携わっていたか。
同様に「続日本紀」の宝亀八(777)年正月条には忍海倉連甑(こしき)に外従五位下を授けるとあり、忍海地域にも大和王権のクラが置かれ忍海倉連氏がその管理に従事していた。
大和王権の収納機関であるクラは天皇の宮殿近くではなく、交通の便や工人の居住などの条件に応じ宮殿からやや離れて存在。當麻クラや忍海クラはその一例。
當麻郷には倭文(しどり)という布を織った倭文連や布や糸の染色に従事した置始連氏、植物性の材料で敷物類を編んだ掃守氏などの居住が知られる事から當麻クラには主に繊維製品類が、忍海クラには主に金属製品類が収納されていた。


〈忍海氏配下の工人集団〉
葛城の南郷遺跡群の調査結果から先進の手工業技術は葛城襲津彦と共に渡来した佐糜(サビ)や高官の漢人弓月君の後裔という秦氏らとの関係が想定される。
桑原漢人らは中心を為す人々が早くに近江へ移住。
忍海漢人の後裔は大和王権直属の工人集団として後々まで忍海郡に盤踞。
肥前国風土記」の三根郡漢部郷条に「来目皇子聖徳太子の弟)が新羅遠征の際、忍海漢人を連れ来て、この村で兵器を作らせた」とある事から、忍海手人・忍海漢人・忍海部らがそれに該当。
「紀」推古天皇十(602)年二月条に「来目皇子に二万五千人の軍勢を授けて新羅に派遣し、筑紫国の嶋郡(福岡県糸島半島のあたり)まで進軍したが六月に来目皇子が病気に罹り果たせなかった」とあるが、この時の事である。

 

律令制下に於いて大蔵省に配置された革染め工人の「狛戸」六人は忍海郡狛人五戸・竹志戸狛人七戸の中から採用する規定だった。忍海には皮革染色関係の渡来系工人集団も居住していたが馬具や甲冑などの生産に必要な皮革の生産に従事。

 

忍海造氏の下には渡来系工人集団が多く服属。

葛城市脇田・笛吹にかけて存在する地光寺跡は七世紀後半の薬師寺式伽藍配置の東遺跡(脇田)と八世紀前半の四天王寺式伽藍配置の西遺跡(笛吹)から成る。

そこからは非常に珍しい新羅系の鬼面文軒丸瓦が出土。忍海造氏の氏寺と目されている。

 

中国が起源である鬼面文軒丸瓦は三国時代高句麗新羅へ伝わり、天智天皇七年(668)年の朝鮮半島統一後の新羅で多く用いられた。

日本では蓮華紋丸瓦が主流。

更に、地光寺跡の下層からは六世紀後半から八世紀の鍛冶機構が多くの鉄滓(てっさい)・鞴(ふいご)羽口・砥石等と共に出土。忍海造氏の特徴を良く示している。

↑六世紀後半から八世紀の鍛冶機構て事は寺業の傍ら鍛冶業も兼業してたて事?

坊主がやってたとは思わないが。

 

加えて地光寺跡の西方山麓にある寺口忍海古墳群(葛城市寺口)は200基程が集中する古墳時代後期の群集墳。早い時期の横穴式石室などからは多くの鉄滓を始め、金床・鉄鉗・鉄槌(かなづち)・砥石・鏨(たがね)・鉄斧・ヤリガンナ・鉄鏃(てつぞく)・刀子・鉄刀・U字形鍬・鋤先など鉄の生産・加工用具やその製品が大量に出土。それらの特徴や位置・地名などからここが忍海に住んだ人々の奥津城に違いない。忍海氏の下には金属工人集団も配置されていた。

↑葛城氏の後継か?と思われる忍海氏が工人集団に?

ますますわけわからんなくなってきた。

それが、奴らの狙いか。

貶めたり、背乗りしたり、証拠隠滅したり。

でも、一生懸命隠したつもりが、何処かからひょっこり証拠が現れたりもしてる。

調べるの、楽しい。

今日はここまで。

16時半に長男一家が到来。

皆でおでん鍋を囲んで温まった。

最後はうどんも投入。

ハフハフして食べた。

雪が降る中、19時半に帰って行った。

後片付けを済ませたら、営業終了。

読書と調べ物の続きをする事に。

 

歩数計は5882。

充実した一日だった。