arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1271日目と葛城氏⑦

2025/3/6木曜日

5時に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、おやつのジンジャークッキー作り。

そして、7時半からは豆麹用の大豆を蒸す作業。

合間に2回分の洗濯物を干し、ベランダガーデニングの水遣り。

8時半に買物へ。

11時に帰宅後、大量の食材を仕分け&収納。

そして、朝、圧力鍋で蒸した大豆に種麹と炒り玄麦をまぶす作業。

大豆は27度まで下がっていた。

これくらい下がってから作業すると、毎日納豆を食べていても大丈夫。

炒り玄麦もまぶしたら下に敷いてあるパイレン布で包み、更に晒し布で包み、発酵機へ。

今日は寒いのでスイッチをオン。

25度設定にした。

11:50分からヤロー共のラーメン作り。

それが終わってからゆっくり食事。

納豆ご飯とスープメインでお腹を満たした。

午後は読書と調べ物。

 

昨日に引き続き、平林章仁著「謎の古代豪族 葛城氏」

著者は、古事記日本書紀にとんでもないエピソードがあるけれど、それを批判していても始まらない、何故そういう話になったのかを冷静に突き詰めないと、と主張していた。

何か理由があるのだそう。

自分も昨日、幾つかのエピソードをディスったけれど、反省。

冷静に突き詰める事に。

 

日向髪長媛の父・日向諸県君氏が河内湖東岸の日下津を基盤とする日下宮王家は眉輪王の死により断絶。
ちなみにこの日下宮王家とは別の日下氏もある。
和爾氏も和珥氏もある。
紀氏もそう。

似たような氏姓が出てくる。

これもどの系統なのか冷静に判断して読まないと、だ。


まずは大草香皇子暗殺事件から。

発端とされた根使主(ねのおみ)は坂本臣の祖先にあたる。

本貫は和泉国和泉郡坂本郷。

新撰姓氏録」左京皇別上・摂津国皇別和泉国皇別の各条で紀朝臣と同祖で紀氏の同族とされている。
紀氏には神別の紀国造系も存在。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD%E9%80%A0


尾張氏・吉備氏・紀氏・日向諸県君氏らはいずれも配下に海洋民を擁する海運に長けた豪族。

葛城氏がヤマト王権の対外交渉を行う際に不可欠の勢力。

そうした豪族との連携を断たれた葛城氏にはその権力体制を維持する事は困難。

475年にヤマト王権と連携関係にあった朝鮮半島西部の古代国家・百済が南下政策を採る高句麗に攻撃され、国王・蓋鹵王は殺され都の漢城も陥落。
「紀」は477年に雄略天皇が汶洲王に久麻那利(熊津)を与え百済国を復興した、と伝える。
宋書倭国伝には478年に倭国王武(雄略天皇)が長大な上表文を認め遣使朝貢してきたと記録。

父祖の功績や高句麗の妨害により百済経由の遣使が困難と記載。

これを最後に120年間中国への遣使が途絶える。
「県(あがた)」は天皇家の直轄的所領。地域の有力者が県主に任命され管理。

奈良盆地には宮廷へ献上する食材を生産した「倭国の六の御県(みあがた)」が存在。高市・葛木・十市・志貴・山辺曾布の六つ。
後に評(こおり)・郡に継承された。
また、「御県」にはそれぞれ高市御県神社高市郡)・葛木御県神社葛下郡)・十市御県坐神社(十市郡)・志貴御県坐神社(城上郡)・山辺御県坐神社(山辺郡)・添御県坐神社(添下郡)が祭られた。
倭国の六の御県」の中で葛木御県が葛木上郡・葛木下郡に移行したとは言えない。それは南北を合わせた広域葛城のほぼ中央に忍海評(郡)があるからである。

忍海は葛城襲津彦新羅から連れ帰った漢人を住まわせた四邑の一つ。

その領域は令制下の葛木上郡と葛木下郡の間、東西約7キロ・南北約2キロという南北に狭小で東西に細長い帯状領域。

明治30(1897)年に葛上郡と合わせて南葛城郡とされるまで変わる事が無かった。
平成15(2003)年奈良県橿原市で藤原宮の内裏正殿・朝堂院の回廊東南隅部の発掘調査が実施された。

その際、朝堂院東外側を北流する南北溝から5000点以上の木簡が出土。

その中に「忍海評」木簡が。
それは同じ遺構から同時に出土した木簡との関係から7世紀末頃と見られる。

「倭名類聚抄」には忍海郡には津積・園人・中村・栗栖の四郷があった。
大化改新の詔では「大郡四十里・中郡四里以上三十里以下・小郡三里」とあり、養老令では「大郡十六里以上二十里以下・上郡十二里以上・中郡八里以上・下郡四里以上・小郡二里以上」とある。

※一里は約4km。

問題は東西7キロ、南北2キロという南北に狭小で東西に細長い帯状領域の忍海評が広域葛城を二分するように設置された事。
ちなみに忍海評の設置は葛城氏滅亡後。
雄略天皇没後、天皇家の姻族に交替が。

葛城氏から和珥氏に。

そして、五世紀の武烈天皇後、天皇家一族は断絶。
応神天皇5世孫のオホド王を迎え継体天皇となった時も后は和珥氏系の手白香皇女を迎えた。
雄略天皇の後を継いだ清寧天皇(母は葛城韓媛)には后や子が無く大和王権は断絶の危機に。
履中天皇の娘・飯豊皇女(母は葦田宿禰娘・黒媛)が葛城の忍海髙木角刺宮で一時的に大和王権の政務を執行。

角刺神社は飯豊天皇が執政した「忍海角刺宮」跡。

境内の鏡池は皇女が水面を鏡代わりに使っていた。

https://www.narakko.jp/trip-katsuragi/

安康天皇の後継の市辺押磐皇子雄略天皇近江国蒲生郡での狩猟に呼び出され殺された。

子の億計(嶋郎しまのいらつこ)・弘計(来目稚子くめのわくご)王兄弟は難を避け播磨国へ逃亡。

伊予来目部小楯(いよのくめべのおだて)は明石郡の縮見屯倉首忍海部造細目(しじみのみやけのおびとおしぬみべのみやっこほそめ)の元で逃亡中の二王を発見。

大和に迎えられ第二十三代顕宗(弘計)天皇、第二十四代仁賢(億計)天皇として即位した。
父の市辺押磐皇子は葛城黒媛を母とし葛城葦田宿禰の子・蟻臣の娘・荑媛(はえひめ)を后とし顕宗・仁賢を儲けた。
顕宗天皇に子は居ないが仁賢天皇には小泊瀬稚鷦鷯皇子が居たので第二十五代武烈天皇として即位。

日本書紀では継体天皇即位を正当化する為に悪しざまに書かれている。

が、大変賢く優れた天皇だった、と何処かで読んだ。

以前ブログでも紹介した。

子が出来ないまま若くして儚くなった。

 

遂に天皇家は断絶。

止むなく応神天皇の5世孫のオホド王を迎え継体天皇が即位。

皇后に仁賢天皇の娘・手白香皇女を迎え、次の安閑天皇も同じく仁賢天皇の娘・
春日山田皇女を皇后に。

ここで天皇家の姻族が葛城氏から和珥氏に。

↑自分は飯豊天皇に惹きつけられた。

皇統の危機に女性ながら執務を執った、最初の女性天皇と言われている。

https://www.narakko.jp/trip-katsuragi/

 

その存在が隠されている理由を知りたい物だ。

今日はここまで。

17時半から夕食作り。

とろろとタタキめかぶ、ポテトサラダ、味噌汁、玄米ご飯、豚のBBQ味、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら営業終了。

読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は8470。

充実した一日だった。