arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1268日目と葛城氏⑤

2025/3/3月曜日

5時に起床し豆麹の品温をチェック。

発酵機のスイッチはオフのまま夜を過ごしたが、27.2度をヒット。

このままあと数時間続ける事に。

まずはクッキー作り。

オーブンを使うと部屋が暖かくなる。

サワークリームクッキー。

焼いている間に長女の朝食とお弁当のおかず作り。

外は雨。

洗濯と水遣りはお休み。

7時半に長女を駅まで送迎。

帰宅後、読書と調べ物。

 

昨日に引き続き平林章仁著「謎の古代豪族 葛城氏」

〈葛城氏の水を用いた儀礼(南郷大東遺跡)〉
南郷大東遺跡は極楽寺ヒビキ遺跡と南郷安田遺跡の中程の尾根の緩やかな斜面にある。

ここでは小川を屈曲する部分で整地造成して堰き止め、その下流に水を溜めて利用出来るようにした大型遺構、全長25mの導水施設が検出された。

この導水施設は、①貯水池、②木樋1 、③木樋2、④木樋3・覆屋・垣根、⑤木樋4の五つの部分から構成。
その構造は①の貯水池(全長12m、高さ0.9mの石貼り)で溜められた水を、②~⑤の木樋を通して下流へ流す仕組みになっている。

④の木樋3が最も大きく、長さ約4mで檜の大木をくり抜き水を溜める槽の部分と水を通す樋の部分を一体で造り出している。
更に一辺約4mの覆屋と一辺約5mの垣根が④の木樋3を周囲から遮蔽。
内部で水を利用する様子を窺えないようになっている。
遺物は土師器・須恵器・製塩土器・韓式系土器・武器・農耕具・紡織具・机・椅子・琴・翳(さしば)・照明具(燃え止し)・瓢箪・桃・馬・大型海水魚のクエなど、多様な品々が出土。
朝鮮半島系の製法で作られた軟質の韓式系土器は渡来人との関係を示すが、海洋魚のクエは海洋民との交流を示している。

武具・農工具・机・椅子・照明具など多種多様な木製品は実用品ではなく儀礼用と見られる物ばかり。

瓢箪・桃・馬・クエなどもその際の供物と考えられている。
問題はこの遺跡の用途。

調査担当者によると「夜間に覆屋の中で木を燃やした灯の下、木樋を流れる水を汲み上げる重要な儀礼が秘儀として葛城の首長により執り行われた」と推定。


〈葛城氏の金属工房(南郷角田遺跡)〉
南郷遺跡中央部の高台に位置する南郷角田遺跡からは大規模な生産工房遺構が出土。5世紀前半の赤く焼けた砂層から膨大な量の金属・ガラス・鹿角製の遺物が出土。韓式系土器や須恵器も多く出土。
遺物で最も多いのが小さな鉄片。甲冑の一部や鋲留めした鉄製品、釘状製品などが出土しているからここでは鉄製の武器や武具、工具類の完成品が製作されていたと見られる。鉄の他に僅かではあるが金・銀・銅も出土。ここでは金銅製品を製作されていたと見られるが当時の我が国では金・銀・鉄は未だ産出せず、それらの原料はインゴット(塊)や延板(鉄鋋)状で輸入。葛城氏は高価な輸入品を入手する手段と財力を有しそれらを製作する先進の工人集団も擁した。
鹿の角は丈夫な事から刀剣・小刀の鞘や柄を飾る際に用いられる。ここからはその細かな砕片1877gが出土。大量の刀剣類を製作していた。
奈良公園の鹿達てまさか、この刀剣類の材料用に飼育されていた鹿の子孫とかじゃないよな?

瀬戸内海の兎島の毒ガス実験後に戦後放置された兎達みたいな?


南郷遺跡群中央部高台の井戸大田台遺跡からも一辺9mの大規模な高床倉庫群3棟が出土。
高床倉庫は床下部分にも柱を建てる総柱構造で重い物を収納したと見られる。

建築時期は5世紀後半。

尚、高床倉庫の間には1間✕9間という長大な建物が存在。

倉庫群の500m東方にある南郷九山遺跡からは南郷遺跡群で最も多い10kgもの鉄滓が出ている事からここの高床倉庫の収納物として鉄製品が想定されている。
↑日本最古の軍産複合体があったんか?

高皇産霊神の子孫が武器作りに勤しむとか、考えられない。

やっぱ、この葛城氏は高皇産霊神の子孫とは違う氏族やな。


後の律令政府の宮内省天皇や皇室に関する庶務を担当。

その直属下級官司に主殿寮があった。

その職務は殿舎の清掃や天皇の乗り物・垂れ幕、灯燭(油・蝋の灯り)・松柴(薪)・炭燎(炭と松明)などを供給。

職務の遂行は40人の殿部が担当。

殿部には律令期以前からの伝統として日置・子部・車持・笠取・鴨の5氏を充てるのが決まり。

その中の灯燭・松柴・炭燎は日置氏と鴨氏が担当。

鴨氏の本貫は葛上郡
その事実は高鴨神社や鴨都波神社の鎮座、鎌倉時代に著された「日本書紀」の注釈書である「釈日本紀」が引用する「山城国風土記」(逸文)の賀茂社縁起説話などから明らか。
5世紀に金属加工の先進地だった葛城には良質の木炭を大量に生産する技術があった。

平城京長屋王邸宅跡から葛城の「鴨伊布賀」から炭を献上したと記されている木簡が2点出土。

↑調べたら、画像出てきた。

https://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/nabunken/6AFITD11000101?locale=ja#&gid=1&pid=7

 


井戸大田台遺跡倉庫群の西方と南方には竪穴住居群がある。

西方のそれは5世紀前半、南方は6世紀後半の物。

大壁建物も検出。

大壁とは土壁の中に柱を埋め込んだ建物。渡来系の集団に特徴的な建築様式。

住居の貯蔵穴や竈から出土した製塩土器はその特色から大阪湾岸産と紀ノ川河口地域産。

当時、塩は濃縮した海水を小さな土器に入れて煮詰めて生産。

固形化した塩の入った製塩土器のまま流通したそうだ。
新撰姓氏録河内国皇別条の「武内宿禰の男、葛木曾都比古命の後」とする塩屋連氏は葛城氏政権下で製塩や漁業・海運などに従事。

9世紀に於いても葛城氏同族を称していた。

遺跡の西には現在も塩屋の地名が存在する。


〈葛城氏の盛衰(南郷田鶴遺跡)〉
南郷田鶴遺跡は極楽寺ヒビキ遺跡の南に位置。

造り付けの竃のある数基の竪穴住居からなる小集落。
そこから坏部に二段の方形の透かし穴を交互に配置するという特異な形をした須恵器の高坏(或いは器台)が出土。

↑特異な形をした高坏とはこれだろうか↓

http://www.kashikoken.jp/museum/tenrankai/tenrankai-kiji/2006/06spring/tenji-2.html

 

類似系の物は太秦古墳群(大阪府寝屋川市)や八重田古墳群(三重県松阪市)、朝鮮半島南部の新羅伽耶からも出土。
現在の寝屋川市太秦の辺りは古代には河内国茨田郡幡多郷。

この異形の高坏を葛城の朝津間脇上に拠地を与えられた秦氏系集団と関わっていると理解する事も可能。
南郷遺跡群では5世紀後半になると韓式系土器の出土が見られなくなる。

再び増加するのは七世紀。

↑ちなみに新羅伽耶大阪府寝屋川市三重県松阪市の遺跡で出土した高坏の画像を発見。


新羅伽耶の高坏


【レア・東京国立博物館伽耶文化展 : よみがえる古代王国(¥1,500)がフリマアプリ ラクマで販売中♪ #rakuma #ラクマ https://item.fril.jp/c275c03e1f2dbddb189db73832043207

②寝屋川の遺跡の高坏画像は見つからなかった。

が、太秦古墳群の史料は発見。

リンクを貼っておく。

寝屋川市太秦古墳群高宮遺跡
https://acrobat.adobe.com/id/urn:aaid:sc:AP:1f9e4139-ddeb-43b9-b040-8e3d27e26d3d

三重県松阪市の高坏

三重県松阪市六大A遺跡志登茂川https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/Miebunka/mobile/bunkazaiMobile/detail/730787

今日はここまで。

 

 

10時半から第5回豆麹作り。

蒸している間、出来たばかりの豆麹で4瓶目の醤油仕込み作業。

今回は最後の方で炒り小麦の量が少なめになった。

自分の定番レシピでは小麦は500gだが、450gずつに。

量は少なめだが、今回は焦げ焦げの小麦粒も多くてとっても香ばしい良い匂いがする。

味は良いと思う。

 

12時に昨夜以来の食事。

ヤロー共には温かい蕎麦を調理。

寒かったので大好評だった。

自分は納豆ご飯と醪汁メインでお腹を満たした。

ホームベーカリーで作ったお餅と自家製あんこであんころ餅。

丁度、雪も降ってきた。

雪が降る中食べるお餅は風情もあって最高に美味しい。

しかも、搗き立て。

夫とハフハフして食べた。

 

午後も読書と調べ物。

大豆の温度が下がった14時過ぎに炒り小麦と種麹をまぶす作業。

取り敢えず発酵機のスイッチはオフのまま庫内へ。

17時に毛布を取ってみると、発酵機の扉に水滴が無い。

いつもはある。

恐らく、品温が低い。

慌てて発酵機のスイッチをオンに。

入浴し体が温まってから、夕食作り。

ポテト鶏グラタン、朝の残りのおかず、残り物のサラダ、漬物、玄米ご飯、醪汁、ウォッカ梅酒ロック。

グラタンソースはサワークリームと豆乳で作った。

夫に絶賛された。

辛うじて長女に半分残してくれた。

お皿を洗ったら営業終了。

読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は6153。

充実した一日だった。