2025/3/2日曜日
5時半に起床し豆麹の品温をチェック。

23.5度。
まずまずの温度。
麹蓋2つに分け入れたら再び発酵機内へ。
発酵機はオフのまま、毛布のみで様子見。
次に、玄麦をよめっこちゃんという機械で挽く作業。
玄麦を一度に100gちょっと挽ける。
パンとお菓子作り用なので、中力系と薄力系の2種類の玄米を300gずつ挽いた。
それを利用して、早速、パン作り。
これまでドライイーストのみ使用してきたが、家にみりん粕があるので、生イーストで作っていく事に。
10日前からチャレンジしているがなかなか発酵しない。
試しに一度使ってみたが全く膨らまなかった。
もしかして、みりん粕がまだ3ヶ月しか醸造してないやつだからか?と思い、先週、酒粕を購入。
すると、すぐさまプクプクしだし芳醇な良い匂いがしてきた。
今日で3日目。
試しに使ってみる事に。
捏ねて、オーブンで発酵させている間に、中華麹の材料をヨーグルトメーカーにセット。
一次発酵の間、豆麹をチェック。

適温なので、引き続き毛布で保温に。
パン生地は1時間40分後に取り出し。
少しだけ膨らんでいた。
小分けして丸めて半分は自家製あんこを入れてアンパンに。
そして、二次発酵を15分。
最後に250度で20分焼いた。

前回よりは柔らかく焼けた。
右のアンパンはあっという間に完売した。
11時半からヤロー共のラーメン作り。
長女は自分で作った。
自分は納豆ご飯と醪汁メインでお腹を満たした。
お昼を食べ終わった所へ長男と上の孫が来訪。
皆で団欒。
夫→長男→長女の順で次々にお昼寝開始。
孫も14時半にコテン、と寝始めた。
暫し休憩。
15時半に孫の泣き声で全員覚醒。
起きたらママが居なかったので泣いたんだそう。
自分で話せるようになって意思の疎通が出来るようになりますます可愛くなった。
孫とお付の者達は公園へ遊びに行った。
その間、自分は夕食作り。
まずは、大鍋にチキンハヤシライス。
そして、魚介のマリネサラダ。
17時半に軍団が帰って来るやバタバタし大変だった。
皆がお腹一杯になった頃に鍋を見るとほぼ完食。

サラダも。

作る量が半端なくて、次男に給食みたいだね、と突っ込まれた。
孫達が大きくなったらもっと大きな鍋が必要やな。
ご飯は4合で全然足りなくてパンが活躍した。
お皿は女子達で洗った。
長男一家が19時半に帰って行ったあと、お風呂。
よーく温まった。
出たら、読書と調べ物。
昨日に引き続き平林章仁著「謎の古代豪族 葛城氏」
〈和珥氏と手を結んだ理由〉
和珥氏は5―6世紀の応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達の七天皇に九人の后を入れ長期に渡り天皇家の姻族として重きを為した。
后の数で葛城氏や蘇我氏と肩を並べるが和珥氏出身の后が産んだ皇子が即位する事は無い。
后の産んだ皇女が再び后になる点に特徴がある。
和珥氏の本貫は「延喜式」神名帳に登載される和爾坐赤坂比古神社(奈良県天理市和爾町)や和爾下神社(天理市櫟本町)が鎮座する辺りに求められる。
その天理市櫟本町にある東大寺山古墳は全長140mの前期の前方後円墳で、和珥氏の奥津城(墓域)の一つである。
その主体部から出土した110センチの環頭大刀の刀身に
中平□□五月丙午造作支刀 百錬清剛 上応星宿下辟不祥
(※□は判読不能な部分)
と、目出度い言葉が金象嵌されている。
特に中平(184-189年)は中国・後漢の年号で、わが国では福岡県福岡市の志賀島から出土した金印「漢委奴國王印」に次ぐ文字史料として貴重。
和珥氏が相当古い歴史を負う集団であるということ。
「記」・「紀」や「新撰姓氏録」などによれば和珥(丸邇)氏の同族には春日臣・小野臣・栗田臣・柿本臣・大宅臣などの諸氏があり、大和国の和爾(天理市北部)を初め春日、難波や山城国の木津川・淀川・宇治川流域、近江国の琵琶湖西岸にまで勢力の広がりが認められる。
「記」崇神天皇段には建波邇安王の反乱に際し大毘古命と丸邇臣氏の祖・日子国夫玖命を派遣して鎮圧。
この舞台は天理市の丸邇坂・京都府の木津川・大阪府枚方市の樟葉・京都府相楽郡の祝園である。
また、「記」仲哀天皇段には応神天皇の即位をめぐり香坂王・忍熊王が反乱した際に丸邇臣氏の祖・難波根子建振熊命が鎮圧に活躍したと伝えるが、乱の舞台は難波から琵琶湖であった。
尚、「紀」神功皇后摂政前紀では乱鎮圧の主人公は武内宿禰。
また、磐之媛を説得するのが「記」仁徳天皇段では丸邇臣口子。
「紀」仁徳天皇条では葛城氏の同族の的臣氏の祖・口持。
↑「記」で丸邇臣口子が説得したのは和珥氏出身の宮簀媛命が産んだ八田皇女だとゲス。
「八田皇女は仁徳天皇が大嫌いで、ある時実家に帰り生涯引き籠もった。そして、兄の菟道稚郎子命と妃のコナベ媛、自分用にウワナベ古墳、コナベ古墳、ヒシアゲ古墳を作った」と何処かで読んだ。
五世紀代の大和政権にとって河内湖に注いでいた淀川・木津川水系と大和川水系の水運網が最も重要だった事は昭和62(1987)年からの難波宮跡発掘調査で、前期難波宮跡下層から東群の6棟・西群の10棟よりなる五世紀代の大規模な高床倉庫群が出土した事で明瞭に。
上町台地北端中央の平坦部に建造された大倉庫群から北に800m程下れば天満川、則ち難波堀江に至る。大規模な高床倉庫群と難波堀江の開削は連関。瀬戸内海・難波堀江・難波津・大和川・淀川の水運網と密接に結びついている。
大和国平群郡に延喜式名神大社の平群坐紀氏神社(奈良県生駒郡平群町上庄)が鎮座。貞観十二(870)年に平群郡に紀氏の居住が確認されること。
平群町にある6世紀後半の三里古墳(全長40mの前方後円墳と推定)は紀ノ川河口付近の古墳に特徴的な石棚のある横穴式石室墳である事から大和川の北岸に位置する平群郡地域にも早くから紀氏が移住。
瀬戸内海運を利用する為には沿岸勢力、特に五世紀代に隆盛を誇った吉備氏との連携が不可欠。
近年、奈良県御所市の南郷遺跡群を初めとする発掘調査が進展。
①葛城襲津彦の墓(宮山古墳)奈良県御所市室にある。
この墳丘は昭和25(1950)年に盗掘され副葬品は殆ど持ち去られていた。墳丘上には石室を巡って二重の埴輪列があり、内側の円筒埴輪に対して、外側には盾・靫(ゆぎ)・甲冑・家屋などの形象埴輪が樹立されていた。
平成10(1998)年9月、台風7号の強風により墳丘の多くの樹木も引き倒された。その根穴から四世紀末から五世紀初め頃の朝鮮半島南部・伽耶地域の船形土器や高坏など陶質土器が出土。被葬者と朝鮮半島の繋がりを証明する事となった。
宮山古墳から西進すれば水越峠を越えて河内に。
南進すれば風の森峠を越えて紀路に。葛城氏が掌握した交通網の要に宮山古墳が位置。
宮山古墳の立地・規模・出土遺物・築造時期などから被葬者は葛城襲津彦をおいては考えられない。
平成4(1992)年から葛城氏の本拠で圃場整備作業が実施されるのに先立ち遺跡・遺構の事前調査を実施。
すると、後に南郷遺跡群と称される五世紀代を中心とした多種多様な遺跡が集中的に出土。
その調査結果は五冊の報告書に。
古くは1128mの金剛山と960mの葛城山を併せて葛城山と称した。
南・西は標高が高く、北・東は低くなるが、南郷遺跡群は金剛山の東麓の、深い谷で枝状に分断される扇状地に分布。
その中の極楽寺ヒビキ遺跡は南郷遺跡群の南東部高台に位置し、空気の澄んだ冬の晴れた日には奈良盆地の北、仁徳天皇の皇后・磐之媛を葬ったとされる奈良山あたりまで望む事が出来る。
調査の結果、敷地西側に大型掘立柱建物、東側に広場と隅に小規模な掘立柱建物。
区画内に入ると、3本の板柱。
その左手に楼閣状の高層高床建物・高殿が建てられいた。
特徴的なのはそこに幅58-84cm,厚さ10-16cmの板柱が用いられていた。
板柱を用いた古墳時代の掘立柱建物跡は奈良市の西大寺東遺跡や橿原市の藤原宮下層遺跡でも出土。
宮山遺跡の家形埴輪も板柱。
板柱を建てた穴の柱があった部分は赤土に置き換わっていた。
この要因を火災に求める考えもある。
葛城円大臣が焼き殺されて滅亡したと伝えられる事に引き付けて理解する事も出来る。
↑出土品から、朝鮮半島との深い関係が窺える。
政争の中身を読んでも、葛城襲津彦とその子孫は高皇産霊神の子孫の葛城氏とは異なる、と確信を深めた。
今日はここまで。
歩数計は7021。
充実した一日だった。