2025/2/27木曜日
5時に起床し豆麹の品温をチェック。

20度以上あったので、発酵機はオフのまま、毛布2枚を掛けて続行する事に。
洗濯とベランダガーデニングの水遣りを済ませたら8時半に畑へ。
まずは、じゃがいもの植え付け。

こうやって見ると、種芋だか土の塊だかわからん。
畝立てし種芋を埋めていると、手の甲から血が滲んできた。

電磁波攻撃な。
手にビリビリ、チクチク来てる。
もう一畝、畝立てし植え付け。

すると、もう一箇所やってきた。


持参した納豆菌培養液も振り掛け。
10時に作業終了。
そのまま、買物に。
11時に帰宅後、第三回醤油用豆麹の仕込み開始。
大豆を圧力鍋で蒸している間に第二回醤油用豆麹の出麹。

瓶をアルコール消毒したら塩水を作り、出来上がったばかりの豆麹とよーく混ぜ混ぜ。

去年仕込んだ醤油ちゃん達も連れて来て、久しぶりに混ぜ混ぜ。
一番左が今日仕込んだ醤油。
色が全然違う。
悪魔くんはこれらに定期的にカビ菌を仕込む。
うちの醤油は一瓶450gの塩を投入。
真ん中の瓶は異なるレシピを参考にしたので600g投入している。
これらに挑戦してくる。
12時に昨夜以来の食事。
味噌汁と納豆ご飯に目玉焼きでお腹を満たした。
蒸した大豆の温度が30度台に下がってから醤油用種麹と炒った玄麦を混ぜ混ぜ。

大豆の品温は31度。
ここまで下がってから作業すると、直前に納豆を食べても大丈夫。
そして、種麹の力を信じ、今回も発酵機の中に投入するけれど、スイッチはオフのまま。
毛布を掛けた。
やる事やったら読書と調べ物。
今日からは葛城氏に関する本。


↑これ、全部渡来人、帰化人な。
葛木て確か高皇産霊尊の子孫が名乗った名字。
渡来人に背乗りされてしもた。


↑わいの私見だが、石之媛命は八田皇女の事と推測。
藤原出身の光明子を皇后にする為に「前例」としてでっち上げた。

①神功皇后5年3月条
葛城襲津彦は新羅の人質・微叱許智伐旱の本国への送還に付き添って渡海。
襲津彦は新羅の蹈鞴津に停泊。
草羅城を陥れて帰国。
この時の俘人は今の桑原・佐糜・高宮・忍海の四邑の漢人の始祖である。
②神功皇后六十二年条
新羅が朝貢しないので襲津彦を派遣して攻撃させた。
↑神功皇后は母方が朝鮮半島か
ら日本に流れ着いたアメノヒボコ王子の子孫なので新羅に対し貢物を要求していた。
③応神天皇十四年是歳条
百済から渡来した弓月君から、国の人夫120県を率いて来たが新羅の妨害で加羅国に留まっている、と報告があった。葛城襲津彦(←まだ生きてたんか!)を派遣し弓月の人夫を加羅より召したが、襲津彦は3年経っても帰国せず。
④応神天皇十六年八月条
平群木兎宿禰と的戸田宿禰に精兵を授けて加羅に派遣。
葛城襲津彦らの帰国(←何歳?)を妨げている新羅を攻撃するよう命じた。
⑤仁徳天皇四十一年三月条
紀角宿禰を百済に派遣し境界を定め産物を記録させたが百済王族酒君が無礼だったので紀角宿禰は百済王を攻めた。
百済王は酒君を鉄鎖で結わえ襲津彦に進上したが酒君は石川錦織首許呂斯の家に逃げ隠れ、天皇が既に私の罪を許していると騙って欺いた。
以上が葛城襲津彦の活動についての記事の概要。
朝鮮半島と関連するものばかり。
漢人の祖先が配置された四邑は葛城氏の本拠である大和国葛木上郡内にある。
忍海は葛上郡に北接する忍海郡にあたる。
ここも葛城氏の本拠。
尚、四邑の漢人らは葛城氏の滅亡後は東漢氏の統率下に置かれた。
埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣
471年に比定される「辛亥年」
雄略天皇にあたる「獲加多支鹵(わかたける)大王」の「斯鬼宮(しきのみや)」に「杖刀人」として奉事した「乎獲居臣(おわけのおみ)」について「上祖意富比肩(おおひこ)」から乎獲居臣に至る八代の系譜が刻まれていた。
5世紀後半の雄略天皇の時に乎獲居臣が八代にわたる系譜伝承を所有していた。
中国の「隋書」倭国伝に推古天皇八(600)年の第一回遣隋使派遣に関する記事の中に「倭王姓阿毎(あめ)、字多利思比孤、号阿輩鶏弥(あめきみ)」とある。
舒明天皇の前、推古天皇の時、アメタラシヒコが倭国王の称号として用いられていた。
推古天皇の時にはタラシヒコ・タラシヒメが天皇や天皇家の男女の称として定着。

秦氏の渡来と葛城氏
大和国高市郡檜前を拠点とした東漢氏と京都盆地に拠った秦氏等の渡来系集団は古代文化と技術の発展に大きく寄与。
秦氏は京都盆地を開発し稲荷神社を創祀。国宝の弥勒菩薩半跏思惟像で知られる広隆寺を創建。
平安時代初めの弘仁六(815)年に完成した京と畿内(大和・河内・摂津・和泉・山城)の1182氏の系譜書「新撰姓氏録」山城国諸蕃の秦忌寸条は「応神天皇の時に、秦氏の祖弓月王が127郡の人民を率い、金・銀・玉など多くの宝物を携えて渡来。大和の朝津間脇上の地を与えられ居住した」と記している。秦氏所伝によると最初に朝津間脇上に定着。
朝津間は現在の御所市朝妻。
ここは葛城氏の本拠地内。
葛城襲津彦が弓月君の渡来に関与したという史実を反映。
葛城氏は四邑の漢人や秦氏など先進の文物を保有する渡来人の導入に関与。権力の基盤と特色を示唆。
平群木兎宿禰と的戸田宿禰の名前が出たが、平群木兎宿禰は建内宿禰後裔系譜に見える。
的戸田宿禰も同じく葛城長江曾都毘古の後裔氏族として見える的臣氏の祖。「紀」仁徳天皇十二年八月条には高句麗から献上された鉄の的を盾人宿禰が射通したので的戸田宿禰の氏名を与えられた、とある。
これらのことから葛城氏の権力は武内宿禰後裔という平群氏や的氏らで構成されていた事も推察される。先の建内宿禰後裔系譜は葛城氏政権の構成員一覧といった性格も読み取れよう。

↑仁徳天皇の時代には政治の中枢に渡来人・帰化人がうじゃうじゃ居た、と。
今日はここまで。
17時半に豆麹の品温をチェック。

20度以上あるので良しとし、毛布を掛けて様子を見る事に。
そのまま夕食作り。

豆乳スープ、チーズinハンバーグ、海老サラダ、ウォッカ梅酒ロックと芋焼酎梅酒ロック。
かぶと大根の漬物は実家の母から。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は8412。
充実した一日だった。