arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1263日目と女たちの壬申の乱②

2025/2/26水曜日

5時に起床し豆麹の品温をチェック。

すると、16度しか無かった。

なので、発酵機をオンにし最低温度の25度に設定。

5時40分に長女を駅まで送迎。

帰宅後、小豆を圧力鍋で調理。

その間にクッキーとパンを焼いた。

洗濯物を干すついでにベランダガーデニングの水遣り。

9時過ぎに買い物へ。

夫が付き合ってくれたので運ぶのが楽だった。

 

10時半に帰宅後、大量の食材を収納し終えたら自分の時間。

読書と調べ物をする事に。

昨日に引き続き水谷千秋著「女たちの壬申の乱

 

遠駆けしたまま帰って来なかった天智天皇の御陵は京都市山科区
山科は中臣鎌足の邸宅のあったところでもある。


万葉集」巻第二の百五十五番歌
山科御陵より退り散くる時、額田王の作れる歌一首
やすみしし 我ご大王の 
恐きや 御陵奉仕ふる
山科の 鏡の山に
夜はも 夜の尽 
昼はも 日の尽
哭のみを 泣きつつ在りてや
磯城の 大宮人は
去り別れなむ
(山科の御陵より退散する時、額田王の作った歌一首
やすみしし 我が大王の 恐れ多い 御陵を造営している 山科の 鏡の山に 夜はといえば 夜通しに 昼はといえば ひねもすずっと 声を上げて 泣き続けていて 百磯城の 大宮人は 去り別れていくのか)
天智天皇が暗殺されたのは671年12月3日。
12月5日には大友皇子弘文天皇として即位。
万葉集」には天智天皇崩御を悲しむ後宮女性達の挽歌が九首も収められいる。


倭姫皇后 四首
額田王 二首
姓氏不明の夫人の作 一首
舎人吉年の作 一首
石川夫人の歌 一首
合計九首
http://viewmanyou.web.fc2.com/020155_tenchi_nukata.html
↑歌を見ると、九首中七首は倭姫皇后(額田王)御製やな。
崇福寺では12/3と4/13、天智天皇草壁皇子の忌日に悔過法要が行われてきた。

持統天皇はこの父と子の法要に毎年名代を派遣したそうな。


日本書紀」と「続日本紀」によると皇后の死は敏達天皇の皇后広姫から記載されている。
用明皇后と天智皇后の記載が無い。
天皇生母に関しては、持統天皇の母・遠智娘と元明天皇の母・姪娘の死亡記事が無い。
天智天皇の9人の后妃のうち、死亡記事の記載があるのは橘娘一人だけ。
一方天武天皇の后妃10人の死亡記事は6人に至る。
天智天皇の后妃のお墓に関しては何処にあるのかも記載が無い。
平安時代初期に編纂された「延喜式」と言う書物がある。古代の種々様々な法令や制度を集成した記録集。
この中に「諸稜寮条」という項目がある。
二官八省の中に治部省という省があり、その中に諸稜寮という部署がある。
これは全国の天皇稜の祭祀と管理を担当。
延喜式」の諸稜寮条は、この役所が管轄している119基の稜墓及びそれに準ずる皇族や皇后、后妃、摂関を務めた貴族らの墓のリストなのである。
日本書紀」と「延喜式」のどちらにも御陵の記載が無いのは天智天皇皇后の倭姫のみ。
↑どんだけ、時の権力者に嫉妬されていたのか。
万葉集に載っている歌を拝見しただけで只者では無い、と感じる。

一編、音読してみ?

ゾワゾワするで。

ちなみに、自分が最も好きな額田王による歌↓

「白雲の たなびく国の 青雲の 向伏す国の 天雲の 下なる人は 我のみかも 君に恋ふらむ 我のみかも 君に恋ふれば 天地に 言を満てて 恋ふれかも 胸の病みたる 思へかも 心の痛き 我が恋ぞ 日に異にまさる いつはしも 恋ひぬ時とは あらねども この九月を 我が背子が 偲ひにせよと 千代にも 偲ひわたれと 万代に 語り継がへと 始めてし この九月の 過ぎまくを いたもすべなみ あらたまの 月の変れば 為むすべの たどきを知らに 岩が根の こごしき道の 岩床の 根延へる門に 朝には 出で居て嘆き 夕には 入り居恋ひつつ ぬばたまの 黒髪敷きて 人の寝る 味寐は寝ずに 大船の ゆくらゆくらに 思ひつつ 我が寝る夜らは 数みもあへぬかも」

↑「詠み人知らず」で万葉集に掲載されている。

が、「天地」というスケールの大きな言葉使いや彼女しか出せない情熱感から額田王の歌や!と感じた。

ちなみに「9月」は2人の恋が成就した月。

ご存知の通り額田王は最初、大海人皇子の妃。

中大兄皇子と相思相愛となるもそう簡単に一緒にはなれなかった。

脱線したので本題に戻る。


天皇生母の中では遠智娘(持統母)と姪娘(元明母)の墓の所在が日本書紀にも延喜式にも無い。
崇峻天皇生母の小姉君も。
↑共通するのは、これらの女性達は歴史書では蘇我の名字が冠せられているが母親は物部系。

古代は母系社会で母方で育てられる事が多々あった。
これらの謎を解く上で参考になるのが、大友皇子弘文天皇)の墓の記載も無い事。
大友皇子壬申の乱で縊死した事になり、後に天武天皇が首級を検分した。
罪人、反逆者扱いだった。
同様に古人大兄皇子や大津皇子有間皇子なども皇子であっても「延喜式」に記載は無い。
という事は、皇后であっても、天皇生母であっても陵墓の記載が無い倭姫皇后、遠智娘、姪娘は反逆者扱いだったのである。
誰にとって?
ちなみに、遠智娘は持統天皇の生母で、その死後、姪娘に引き取られ育てられたと言われている。

恩のある人々に対してそんな事をするだろうか。


日本書紀」天武二年八月条
天武の即位を祝う新羅から「賀騰極使(ひつぎよろこぶつかい)」が派遣された。

それに対する返答。
天皇、新たに天下を平らげ、初めて即位す。これによりて唯、賀使を除きて以外は召さず」(天皇は新たに天下を平定し、初めて即位された。これによって唯、お祝いの使者を除いてはお召しにならない)
天武は即位しても、亡くなるまでの13年間、左右大臣を任命しなかった。大豪族を政権の中枢から遠ざけ、専制政治を行った。
壬申の乱は、大海人皇子による近江朝廷の軍事打倒。
天智天皇皇子の「志貴親王」の薨伝(『続日本紀霊亀二年八月条)に
親王天智天皇の第七の皇子なり。
とある。


日本書紀』には天智天皇の男子は長男の大友皇子、次男の健皇子、三男の川島皇子、四男の施基皇子(志貴親王)の四人しか記されていない。
史料に残されていない天智天皇の皇子が他に三人存在したか。
六世紀前期から七世紀中期にかけて、日本の天皇家においては、「大兄」の含まれる名前が多用されている。

「大兄」の初見は、『古事記』の景行記に、第12代景行天皇と伊那毘能若郎女との間に生まれた第二子が「日子人之大兄王」と記されたことであると思われる。この後、『古事記』の仁徳記に、第 16 代仁徳天皇と皇后・石之日売命との間に生まれた第一子は「大江之伊邪本和気命」(第17代履中天皇。『日本書紀』では同訓の「大兄去来穂別尊」)という名前で記されている。

ところが、「大兄」が頻繁に使用されるようになったのは第27代安閑天皇の「勾大兄皇子」以後であり、それ以来「大兄」を名に持つ者は合計で 7 人である。

聖徳太子の第一子の山背大兄王を除き、名に「大兄」が含まれる者はいずれも天皇の子。

しかも、勾大兄皇子と中大兄皇子の2人はそれぞれ第27代安閑天皇・第38代天智天皇になったのである。

このことは、大兄と皇位継承との関連性を示しているとされる。 

飛鳥浄御原令の編纂、藤原京の造営等は高市天皇がやった事。
持統は吉野に30回も通って不比等とヒソヒソしてただけ。

それにしても、この飛鳥時代の不審な点の多い事。

日本書紀続日本紀では都合の悪い事は削除されてる。

しかも、嘘も書かれている。

自分で調べないと、本当の日本の歴史はわからないのであった。

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

夫にはラーメンを調理。

喜んで食べていた。

自分は味噌汁と納豆ご飯と鮭。

そして、おやつに朝焼いたパンとクッキー。

それはそれは美味しいおやつとなった。

 

17時半から夕食作り。

とろろメカブ、鯵の刺身、サラダ、豚キムチ、味噌汁、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

読書と調べ物をしてから寝ることに。

 

歩数計は7810。

充実した一日だった。