arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1256日目と孫とお出掛けのあとのビンゲンの聖女ヒルデガルト⑦

2025/2/19水曜日

5時半に起床し納豆用大豆の蒸しと長女の朝食、お弁当のおかず、次男のおにぎり作り。

ついでにおやつのサワークリームクッキー作り。

合間に納豆菌をまぶした大豆をヨーグルトメーカーにセット。

そして、洗濯とベランダガーデニングの水遣り。

9時20分に嫁とお孫ちゃん達をピックアップしお出掛け。

楽しい一時を過ごした。

 

12時に帰宅後、急いでうどん作り。

12時15分に昨夜以来の食事。

夫はうどんを美味しそうに食べていた。

自分は味噌汁と納豆ご飯メイン。

午後は読書と調べ物。

 

昨日に引き続き種村季弘著「ビンゲンのヒルデガルトの世界」

第13章病気の治癒力
ヒルデガルトは1158年から1171年に掛けての10余年間に何度かの説教旅行に出た。
第一回 1158-1161年 マイン旅行。 マイン河沿いにマインツ、ヴェルトハイム、ヴュルツブルクバンベルクへ。
第二回 1160年 トリーア経由ロートリンゲン
第三回 1161-1163年 ライン旅行。ライン河沿いに、ボッパルト、アンダーナハ、ジークブルク、ケルン。
第四回 1170年、シュヴァーベン旅行。マウルブロン、ヒルザワ、ツヴィーファルテン。
以上の他に1154年のインゲルハイムにおけるバルバロッサとの会見。

そして、翌1155年、ヒルデガルト56歳の時のディジボーデンベルク騎行。

更に、1164年頃のマインツ帝国会議期間中における同地での皇帝(バルバロッサ)との会見がある。

加えて、小旅行とはいえ、1165年頃、ヒルデガルト67歳の時に始まるライン対岸リューデスハイム北岸にあるアイビンゲン女子修道院建設の為の何度にも及ぶライン河渡河を忘れてはならない。
アイビンゲンはライン対岸、ルーペルツベルクの殆ど真向かいに位置する。

1148年、ここにアウグスティノ修道会修道院が建立された。

しかし、建立から僅か17年後の1165年、修道院は盗賊軍に略奪され建物も諸施設も破壊された。

修道士達は逃散。

その一部始終を見ていたヒルデガルトは再建を思い立つ。
折からルーペルツベルク女子修道院ヒルデガルトに従ってきた修道女20人弱が忽ち50人を越す大所帯に。

早くも収容人員過剰に悩んでいた。
ヒルデガルトは旧アウグスティノ修道会の寄進者達に話を持ち掛けた。

高名な女性幻視者の再建築は先方に異存は無かった。
1165年からヒルデガルトは第二の女子修道院建設の為に週2回小舟でラインを往復。
定期的な小旅行はその都度近隣の民衆との接触をもたらし、そこから聖なるラインと女預言者ヒルデガルトに纏わる伝説が生まれた。
ある日、ヒルデガルトを乗せた舟がラインを渡っていた時の事である。

アイビンゲンの方から1人の女を乗せた小舟がこちらを指して近づいてくる。

女が悲しげな泣き声を上げるので理由を尋ねさせると女は「これから貴方様の御許に参るところでした。この子をみて下さい。生まれつきの盲目です。一生母親の顔を見られませぬ。」と抱いている赤ん坊を差し上げた。
ヒルデガルトは渾身の力を込めて祈った。
そして、片手にラインの水を掬い子供の眼を洗ってやった。

と、子供の眼はみるみる生気を帯びヒルデガルトの顔を、次いで母親の顔を、それからまたヒルデガルトの顔を、交互に眺めてニコニコ笑った。
度々の説教旅行とアイビンゲン渡河旅行を通じて彼女の存在はライン河岸の人々の身近に親しまれていた。
前後四回に及ぶヒルデガルトの説教旅行は「使徒の旅」と呼ばれる。
説教の矛先は一貫して聖職者の世俗化と怠惰。
第一回のマイン旅行については伝記作者テオードリヒが次のように報告している。
「数々の他のめぼしい出来事の他に分けても注目すべきはヒルデガルトが神の意志に駆り立てられて、のみならず強いられもして、ケルン、トリーア、メッツ、ヴュルツブルクバンベルクに赴き、僧侶並びに民衆に神の意志を告げ知らせた事である。」
最初の説教は1160年聖霊降臨祭週間、トリーアで行われた。この時激越な説教に震撼したトリーアの聖職者達は説教の内容を後世に残すべく書簡形式に要約してくれるようヒルデガルトに依頼。彼女は要請に応えた。
第二回旅行はトリーアからモーゼル河をロートリンゲン(ロレーヌ)まで南下。同じ1160年、立て続けに第三回の説教旅行に出る。
ヒルデガルトは1098年生まれだからこの時62歳。元気やな。

4度に及ぶ説教旅行の中でもこの第三次旅行は最も重要。

最も生産的だった。

まず、ケルンへ、ケルンからラインを北上し、ルールを経、ヴェルデンから恐らくリュティヒまで足を伸ばす。

旅程は2年間に渡った。
旅行の主な内容はカタリ派の猛威調伏。
富裕都市ケルンとマインツでの説教は激烈を極めた。
そうといって、この問題ばかりに逆上せていたわけではなく、宿を求めて立ち寄った大小の修道院、女子修道院では、修道院内部の些細な揉め事や僧院管理を巡る僧院長達の悩みに付き合わされた。
マイン旅行ではシュトラースブルク司教座に属するツァーベルン近傍クラウフタールのベネディクト会女子修道院でハツェハ院長の悩み事を聞いた。
同じくマイン旅行の途上に訪れたエプラハの僧院ではクレルヴォーのベルナールによって「当代最も高名なシトー派僧院長」と称された僧院長アダムに歓待された。
第三回のライン旅行ではジークブルクの聖ミカエル修道院に立ち寄って同修道院「母」に選ばれた。
マインツでは兄のフーゴと再会。
バンベルクでは嘗てルーペルツベルクを訪れた事もあるバンベルク大司教エーバーハルトと旧交を暖めた。
キツィンガー療養園の女子院長ゾフィーを訪れた。
今は未亡人となったゲルトルートの聖テオドール病院開設のきっかけを作った。
また、行く先々でアイビンゲン渡河の際のような奇蹟を起こした。
テオードリヒがこれを記録している。
幼い女の子のパパタシ熱を治した。
頸部腫瘍、頸部腫瘤を治した。
言語障害、精神病、癲癇、盲目、悪魔憑き、死病を治した。

その多くは「談話療法(talking cure)」で治したという。 
ヒルデガルトの説教旅行をその前後の彼女の年譜と照らし合わせると、旅に出る前(又は後)必ずと言っていい程、長期の病床に伏している。
特に3つの大患に注目。
「往復書簡集」の編者フューアケッターはヒルデガルトのパルクの僧院長フィリップ宛のさる書簡との関連に於いて次のように述べている。
「この手紙を書いた時ヒルデガルトは重病の床にあった。第一回目の大病はヒルデガルトのディジボーデンベルク騎行の時期。第二回は1158-1162年の時期。ヒルデガルトはそれを伝記の中で彼女の僧院における第二の大きな動揺の記述と結び付けて報告。フィリップ僧院長宛の当面の手紙を書いたのもこの時期。1170-1173年までの間に3度目の大病。この病の事は聖ディジボドゥス伝の冒頭に述べられている」
ヒルデガルトはフィリップに宛てた手紙の中で病気に留まり続けている自らの待機状態をしばしば鯨の体内に包み込まれたヨナに譬えている。

ヨナのように病気に包み込まれていた。
ヒルデガルトの3度の大病時期と説教旅行の時期は重なる。
病気にも拘らず、ではなく、病気だからこそ当時としては健康人ですら其れ自体が生死の問題に関わりかねない長途の旅行に出ている。
ここで、「スキヴィアス」冒頭のヴィジョン幻視とそれに続いて起こった神の鞭(病気)との関連を述べたフレーズに立ち戻る。
「私は書く事を躊躇った。頑迷さからではなく、自分の無能力からであり、懐疑癖と肩すくめと人間の様々の無駄話のせいであった。やがて神の鞭が私を病床に就かせ給うた。そこで漸く私は書き始めた。(略)こうして書き始めると(略)私は再び力を得て病から立ち直ったのであった。」
まず、神の意志によってヴィジョンが彼女を鷲掴みにする。

ヴィジョンはこの世ならぬ視聴体験なので、その重圧に耐えかねて彼女は病気になる。

病気がヴィジョンの否定的な面として同時に彼女を襲撃。

ヒルデガルトはしかしヴィジョンを表現する事によって病から立ち直る。
鉄筆で書くか、説教旅行で口頭で外化するか。

↑成る程。

晩年、60代、70代という高齢の身で説教旅行に出向いたのはそういう事だったのか。

神様からのメッセージを伝えていた、と。

幻視て、神様からのメッセージを聴いていたのな。

巫女でもあった、と。

今日はここまで。

 

17時から夕食作り。

生姜焼き、シーフードグラタン、帆立紐サラダ、ウォッカ梅酒ロック。

これに玄米ご飯と味噌汁をプラス。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら営業終了。

読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は9186。

充実した一日だった。