2025/2/16日曜日
7時に起床し昼食とおやつのクッキーと夕食用のパン作り。
ついでに中華麹作り。
合間に洗濯とベランダガーデニングの水遣り。
クッキーとパン作りの前に玄麦の製粉作業。

左からスペルト小麦(強力系)、ネバリゴシ(中力系)、キタカミコムギ(薄力粉系)。
今回、初めてスペルト小麦を取り寄せてみた。
ヒルデガルト本のレシピにはスペルト小麦を材料とする料理が多々。
古代小麦の事を言い、本の中ではディンケル小麦とも紹介されている。
スペルト小麦はスペインで、ディンケル小麦はドイツでの呼び名。
ちなみにイタリアではファッロ。
パンやクッキー、パスタの他、玄麦を茹でてリゾットやサラダに混ぜたりする。
試してみたいレシピが幾つかあったのでお取り寄せ。
今回はパンとクッキーとアクアパッツァで使用する事に。
まずはクッキー。

そして、パン。

イーストの品質が悪かった為か一次発酵で全く膨らまず。
見た目イマイチだが試食した長女が美味しい!とお替りしていた。
自分も食べてみた。
確かに香ばしくて美味しい。
夕食用に12個を残した。
12時に昨夜以来の食事。
午後は読書と調べ物。
昨日に引き続きヒルデガルトの本。
1095年、教皇ウルバヌス二世の呼びかけによりキリスト教徒による聖地イェルサレム奪回の為の第一回十字軍遠征が始まった。
1099年7月15日金曜日、ゴドフロアのブイヨンの率いる北部フランス及びロレーヌ地方の兵士からなる軍団が遂にイェルサレムを奪取した。
身命を賭して神の近みに参じる事への真摯な憧れだったが、反面、一旦火蓋を切った戦闘欲は当初の聖地奪還の大義を逸脱し異教徒やよそ者の迫害へとエスカレート。
1096年5月初頭、悪名高いライニンゲンのエミッヒを首領とするごろつき集団が十字軍遠征の行きがけの駄賃とばかりにライン河岸の町シュパイエルでユダヤ人13名を血祭りに。
ヴォルムスまで来ると500人以上を虐殺。ヒルデガルトの住んでいたディジボーデンベルクに程近いマインツでも同様のポグロムが繰り返された。
↑虐殺話は話半分で受け取らないと。
それで、人々の同情を買い、移民を受け入れさせようとする。
これは、現代にも通じる事。
ユダヤ人に限らない。
歴史は繰り返される。
一方聖地に於ける十字軍の勝利も束の間。1140年代には十字軍の成果と東方におけるその支配地はほぼ壊滅。振り返ると、十字軍とは、無数の兵士の死と巨額の経済的損失を後に残す暴挙に他ならなかった。
12世紀の僧院は丸腰。
暴力に対する自前のいかなる防御も持たなかった。
そこで多くの僧院が世俗の僧院管理人(Vogt)と契約。
僧院管理人は一定の契約金と引き換えに僧院の外部にある寺領地管理と軍事的保護を請け負った。

この保護者はやがて強者の地位を乱用。
僧院管理人が僧院を管理の傘下に指定するのが実状に。
僧院機構全体の中で主人として振舞うのは僧侶では無く世俗の僧院管理人。
その上、僧院管理人職は家職として引き継がれる場合が少なくない。
僧院の自律性は失われ悪代官が蔓延るように。
ディジボーデンベルク修道院も1154年に世俗の管理人と契約を締結している。
後にヒルデガルトが創設する(1143年)ルーペルツベルク修道院は例外的に僧院管理人と契約せず。
諸侯の庇護も求めず。
神聖ローマ帝国皇帝バルバロッサに請うて皇帝の万能の「保護状」を手中に。
↑凄ないか!?
当時の聖職者としては例外的に特異な保身術。
中世の激動時代に一つの女子修道院を無傷のまま守り通し自らも80歳の長寿を全うした秘密は、この世俗をも含めた外界の力の均衡に対する明晰な洞察力の賜物であった。
ヒルデガルトは精力的に対社会的活動を展開。
当代の説教師、演説家とも成らざるを得なかった。
まず、何より幻視者でありそれを根拠にして癒す医者であり医学史家だった。
医薬調製の為に植物、動物、鉱物の観察研究に没頭。
最晩年には宇宙論を口述。
宝石学の書も著し、中世の博物誌はヒルデガルトに於いて頂点を究めた。
更に、女子修道院の年下の修道女達の為の聖歌を作詞作曲し、音楽劇を書き、「スキヴィアス」の挿絵画家として絵画製作もした。
ヒルデガルトは中世最初に修道院の室内に水道を引き込んだ工学的発明家でもあった。
↑新たに作詞作曲家と画家とエンジニアの話も出てきた。
その後はヒルデガルトが幻視能力を以てローマ教皇のお墨付きを得た話が続き、そのお墨付きにより、ヒルデガルトの元へ、その教えを乞う修道女志願の少女達が押し寄せた。
ここで、ヒルデガルトは「ヴィジョン」からのお告げを聞いたらしい。
「近くのビンゲン近郊ルーペルツベルクに修道女だけの共同体を創設するが良かろう」と。
が、新たに修道院を建設するには莫大な資力が要る。
ヒルデガルトは計画を諦めかけた。
すると、直後に視力を失い全身麻痺に。
彼女はこれを神のお告げを躊躇った事への懲罰と見なし、病床に修道女達を集めルーペルツベルク移転の決意を打ち明ける。
その瞬間、視力が戻り全身麻痺は解消した。
依然2つの難題が。
一つはルーペルツベルクの土地所有権。
もう一つはディジボーテンベルク修道院のクーノ修道院長に移転許可を取り付ける事。
クーノ修道院長としては、今やディジボーデンベルク修道院の目玉となっているヒルデガルトを手放す事の痛手を思うと許可出来ない。
↑あれか。人気アイドルが所属する芸能事務所から独立する時の騒動と一緒か。
クーノ修道院長が即座に却下するとヒルデガルトはショックの余り再び全身麻痺に。
救いの手は身近から来た。
ヒルデガルトの助手を務めていた名門貴族出身のシュターデのリヒャルディスの母親のシュターデ辺境伯夫人がヒルデガルトの計画に肩入れ。
ハインリヒは兼ねてからヒルデガルトの力量を高く買っていた。
直ちにマインツ司教の名に於いて文書で僧院新設を認可。
司教の認可状が下りるとあとはトントン拍子に捗った。
ルーペルツベルクの領主フォン・ヴェネルデ伯が、ルーペルトゥス礼拝堂と周囲の
葡萄畑を破格の20金という安値で手放した。
直ちに女子修道院の建設がスタート。
面白くないのはクーノ修道院長。
ある日、クーノがヒルデガルトの病床をお見舞い。
仮病の化けの皮を剥がそうと頭を起こしたり、反対側に寝返らせようとしてみたり。
が、どうにもならない。
修道院長がヒルデガルトの病気も神の御徽とわきまえ、最早これまでと病床に向かい「ヒルデガルトよ、主の御名に於いて、起きて、そなたに天が定め給うた住まいに赴くがよい」と叫ぶと奇蹟が起きた。
ヒルデガルトはすくっと身を起こし、まるで何ヶ月も病床に釘付けになっていたことなど無かったかのように歩き回った。
1150年、ヒルデガルト52歳の時、ルーペルツベルク移転。
幾多の苦難を乗り越え、女子修道院を創設した。
今日はここまで。
16時から夕食作り。

アップで撮影。
スペルト小麦を一番下にひいた。

17時から長男一家と夕食。
バタバタしていたが、動画中に画像を発見。
そこからスクショした画像↓

半日浸水させたスペルト小麦をそのまま調理。
リゾットのように美味しく頂いた。
パンも大好評で完売。
肉無しでも満腹感のある食事だった。
お皿は嫁が洗ってくれた。
19時に帰って行った。
ありがたく読書と調べ物をする事に。
歩数計は5269。
充実した一日だった。