2025/2/14金曜日
5時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。
ついでにチョコブラウニーを製作。

今年はマシュマロを載せて焼いてみた。
合間に洗濯とベランダガーデニングの水遣り。
9時に畑へ。

強風によりビニールトンネルの一部が剥がれていた。
他は被害が無かった。
ビニールトンネルの中の白菜の一株に蕾を発見。
トウ立ちする前に急遽1個だけ収穫。
雑草をちょこちょこ抜いたら持参した納豆菌培養液を米の研ぎ汁に混ぜて振り掛け。
スーパーで買物をして帰宅すると11時。
食材を収納し終えたら暫しコーヒーブレイク。
11時40分から昨夜以来の食事の用意。
夫にはラーメンを調理。
喜んで食べていた。
自分は納豆ご飯と味噌汁と朝の残り。
午後は読書と調べ物。
昨日に引き続きヒルデガルトの本。
まずはこれ。

ちょっと、キリスト教の教義っぽい内容なので殆ど飛ばし読み。
興味を引いたのはp.228からの「第二部実践の手引き ヒルデガルトのアンチメランコリカ(抗鬱法) 瀉血による黒胆汁の排出」の部分。
ヒルデガルト医学にはうつ状態の原因の一つである黒胆汁を取り除くのにとても効果的な治療法もある。
ファン・ヘッケン博士によれば憂鬱は生化学的には血球の分解、例えば脾臓における白血球の分解の際に生じる。
ここから血液に入った黒胆汁は個々の細胞へと運ばれて細胞を攻撃し破壊する事もある。
その中には致死率1位とも言われている心筋梗塞やがん、リウマチなども含まれている。
ヒルデガルトは著書「Causae et Curae 病因と治療」の中でこの危険な病因を取り除く方法について説明。
「血管が血液で満杯になった人には瀉血を行い、有害な粘液と消化によって運ばれる腐敗物を浄化しなければならない」
ヒルデガルト式瀉血は病気を予防する重要な方法の一つ。
瀉血は必ず専門知識のある人が満月のあと行う。
次第にやせ細って行く下弦の月の下で血管の中の良い液と悪い液が分離するからである。
瀉血が終わると体の中の治癒力が目を覚まし体内に治癒物質が解き放たれる。
がんの研究で世界的に知られているレオ・R ・ザハルスキ博士はアメリカニューハンプシャー州のダートマス・ヒッチコック医療センターでの臨床研究で瀉血によりがんの発生率が35%下がったと報告。
決定的だったのは高かったフォリチン[鉄を貯蔵するたんぱく質]の数が減少した事。
過剰な鉄はがん化を促進するフリーラジカルの発生を促す。
↑自分は「瀉血」そのものに興味は無い。
が、上で説明されている体の仕組みに関心を持った。
知識の一つとして覚えておこうと思う。
次はこの本。

ヒルデガルトは1098年に神聖ローマ帝国のドイツ王国、ラインラントのアルツァイ近くベルマースハイム村で地方貴族の10番目の子供として生まれる。
8歳の時にユッタ・フォン・シュポンハイムに預けられ、後にユッタと共にディジーボーデンベルク修道院へ移住。
14~16歳で修道女に。
ユッタが女子修道院を設立し、1136年に亡くなると38歳のヒルデガルトが院長に就任。
43歳の時、著書「スキヴィアス(道を知れ)」で5歳から体験した幻視体験を公表。
49歳で作曲も手掛け典礼用の宗教曲を作詞作曲。
それらは現在CDで販売されている。
ヒルデガルトの名声が高まるにつれ、各地から教えを求め修道女が集結。
ディジーボーデンベルク修道院が手狭になったのでビンゲン郊外のルペルツベルクに新しい修道院を建設。
教師、著述、医者、博物学者、作曲家として才能を発揮。
また、数多くのハーブを栽培し広く研究。治療の為に薬草、植物などを活用する著書「フィジカ」を書いて名声を博した。
67歳の時にはビンゲンの対岸、現在ワインの産地で有名なツグミ横丁のあるリューデスハイムの丘陵地帯アイビンゲンに庶民階級の為の新しい修道院を開設。
69歳の時病に倒れ3年間病と闘うも72歳で再び各地へ説教の旅へ。
中世ヨーロッパ最大の賢女とも言われるヒルデガルトは1179年9月17日、81歳で生涯を閉じた。
当時修道院は市民の病院の役目もしていた。
病人は勿論、巡礼者や貧民を宿泊させていた。
修道士女の一番の役目は病人の介護と健康管理。
彼らは語学能力もありラテン語やギリシャ語で書かれた料理書を読み多くの知識を得ていた。
多くの修道院の庭にはハーブ畑が存在。
スイスとの国境にあるボーデン湖に浮かぶライヒェナウ島の修道僧ヴァラフリド・ストラボ(808~849)は薬用植物を扱った「園芸誌」を9世紀に書き上げている。
↑1200年前に書かれたとか凄い!
薬用植物としてのハーブやスパイスはドイツ国内のみならず遠い外国からも取り寄せられた。
治療の為の研究が重ねられ、お茶のように煎じて飲ませたり、料理に混ぜて患者に与えたりした。
修道士達はほぼ自給自足の生活。
畑仕事に家畜の世話、パンを焼き、保存食を作る生活。
ベリー類が実る季節にはジャムを煮て瓶詰めにし、チーズやソーセージなども作っていた。
チーズの歴史は古く、紀元前に偶然から生まれた。
ミルクを遠距離まで運ぶ際に、家畜の胃袋を洗った物を容器にしていたが、胃袋の中のミルクを凝固させる成分によりミルクが凝固。
それがチーズになった!
修道士達の手により何種類ものチーズが作られた。
ドイツとフランスの境、アルザス地方で作られるチーズに「ミュンスター(Munster)」があるがそれは当に修道院付属堂の名。
また、フランスやスイスの「テッド・ド・モワンヌ(Tete de Moine=修道士の頭)」というチーズなど修道士の絵が描かれたパッケージのものが多々ある。
修道院内では鶏や豚、イノシシなどを飼育。
養魚池に魚を泳がせ必要な時に絞めて調理していた。
冬を越す為の保存食として豚などは頭から足の先まで無駄にする事無く使われた。
食材を長く持たせる保存方法も食材ごとに工夫を凝らし研究。
肉や魚は塩漬けや薫製に。
野菜は塩やビネガーを使ったマリネが考案された。
果物類は砂糖と共に煮てジャムに。
保存している肉や魚類は匂いがきつくなったりするのでハーブを使って香りを加えた。
風味は勿論、ハーブによる健康効果まで研究された。

ドイツのクリスマス市に必ず並ぶ「レープクーヘン」や「ペッパークーヘン」は蜂蜜とシナモンなど香辛料を加えて作られる物ですが、修道士がパンを改良しデザートにしたものと言われている。
南米産のチョコレートも修道院から修道院へと伝わりヨーロッパ中に広まった。
8世紀以降、規模の大きい修道院の修道士女達の生活に変化が。
4皿、5皿と平らげたりワインを飲みすぎてアル中になる修道士まで出てきた。
ドイツ・ケルンのブルーノ聖人やクレルボーのベルナルドゥス聖人達は荒廃しかけていた修道会を立て直した。
食の分野に於いて新しい指針を示したのがビンゲンの女子修道院長であったヒルデガルト。
彼女の著書「スキヴィアス(道を知れ)」はローマ教皇エウゲニウス3世のお墨付きを与えられ12世紀に於いて大評判に。
ヒルデガルトの修道院は訪れる人々で溢れ「ヨーロッパの集会場」と言われた。

ヒルデガルトが勧める野菜や果物、ハーブやスパイスは一つ一つに健康に対する意味が込めれれている。
人間が生きる上でどうしたら健康を守り病に立ち向かう事が出来るのか。
漢方に通じるような考え方を多く発見する。
↑医食同源やな。
素材の組み合わせやハーブの使い方など、800年以上の時を経ても現代の食卓に活かせるヒントが多数ある。
当時修道院の食事は朝食と夕食の一日2食が普通。
ヒルデガルトは遅めの朝食、夕食の2回を推奨していた。

今日はここまで。
17時半から夕食作り。

カマス、ししゃも、焼き芋、サラダ、酒粕カツオクリチ、ウォッカ梅酒ロック。
これに玄米ご飯と味噌汁と白菜と豚肉の中華炒めがプラス。
お腹を空かした夫がクリチをどんどんつまみ食いするので無くなる前に急遽撮影。
カマスが大好評だった。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は7073。
充実した一日だった。