2025/2/10月曜日
6時に起床し次男のおにぎり作りと洗濯とベランダガーデニングの水遣り。
ついでにおやつのフレンチトースト作り。

やる事やったら、朝読書。
10/7天皇は播磨国印南野に行幸。
10/10天皇は印南野の邑美頓宮に至る。
12/12太白(金星)が塡星(土星)を犯した。
12/24尾張国で飢饉。
遠江で水害。
両国に3年を限度として民に無利息の貸出を行う。
12/29太政官が次のように処分を出した。「東文忌寸らが今後、弁官に任ぜられる時は大祓の刀を奉れ。」
↑この「処分」が気になって色々調べたが余り情報は無かった。
昨日もアップしたが東文氏は渡来人。
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index214.htm
神亀4年727年長屋王事変の2年前
正月22日夜、月が心宿(蠍座のアンタレス)を横切った。
2/9難波宮の造営に従事させた雇民(強制雇庸の民)には課役(調・庸・雑徭)と房戸の雑徭を免ずることとした。
2/13夜、雷雨と強風があった。
2/18僧600人と尼300人を中宮に招いて金剛般若経を転読させた。
災異の起こるのを防ぐ為である。
2/21天皇が内安殿に出御し詔し文武百官の主典以上の者を召し入れられた。
左大臣の長屋王が勅を述べて次のように言った。
「この頃天の咎めのしるしがしきりにあり、災異が止まない。時の政治が道理に背き、民の心が愁い恨むようになると天地の神々はこれを責めて、鬼神が異状を表すと聞く。朕が民に徳を施す事が顕著でなくその為に怠り欠けるところがあるのだろうか。又は百僚の官人が奉公に勤めない為であろうか。朕は九重の奥に離れ暮らしているので未だ詳しく判らない事が多い。諸司の長官に命じて、各官司の主典以上の官人について、心を公務に砕き勤務状況の目立って良い者と、心に偽りを抱いてその職務を尽くさない者との2種類を選び、その名を記して奏上させることとする。その上で良い者は功績をはかって昇進させ、悪い者はその行状に応じて官位を下降させる。各長官は宜しく隠し憚る事無く報告し朕の意に副うように。」
この日、使者を七道の諸国に派遣し、国司の治政状況と勤怠の実状を巡監させた。
2/23次のように詔。
「時は春の農時にあたり、人々は田畑に出て働いている。自然の恵みも伸びやかに調い、春事は始まっている。何れの農作も良く茂り、五穀の豊穣を願っている。この良い季節に同調して仁慈を人民に及ぼそうと思う。そこで京の六位以下の官人から庶民の戸主に至るまで各塩一顆と籾2斗を与えるようにせよ。」
↑一顆は5合。
一斗は18リットル。
一斗は一升の10倍。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/178565

3/3百官は先頃(2/21)の勅に従い官人の治政・勤務の善悪に関する報告書を奉った。
↑何気に書いてるけれど、当時の交通事情や手書き状況を考えるとたった10日間で奏上て凄い。
↑727年は閏年では無い(728年が閏年)から2月は28日まで。
3/25火星が東井(二十八宿の一、双子座の東方)の西の亭門に入った。
↑二十八宿とは天球を28のエリアに不均等分割したもの。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%AE%BF
5/1日蝕。
5/20楯波池(平城宮の西北)からつむじ風が俄に吹き寄せ、南苑の樹木2本が折れ、←わかる。
そのまま化して雉となった。←は?🦆になった?
9/3井上内親王(聖武帝の娘)を派遣し斎宮として伊勢大神宮に侍らせた。
↑「井上内親王」は後に皇后にもなりながら廃后される悲劇の皇女。
勿論by藤原氏。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
30歳で交代後、58歳の白壁王(天智天皇皇子志貴皇子の第六子)の妃に。
38歳の時、当時としては高齢出産で酒人内親王を、45歳で他戸親王を産んだ。
そこから、嘘の密告により信じられない悲劇に見舞われた。
最後は母子で毒殺された模様。
ただただ哀悼。

https://www.city.gojo.lg.jp/soshiki/kankoshinko/12/2/2583.html
今日はここまで。
9時半に買い物へ。
11時に帰宅。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書と調べ物。
18時から夕食作り。

焼き芋、鶏もも塩焼き、薩摩揚焼、ピザ、セロリともろみ味噌、豆乳スープ、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
お風呂に入って寝ることに。
歩数計は5493。
充実した一日だった。