2025/2/9日曜日
6時に起床し洗濯とベランダガーデニングの水遣り。
7時過ぎにコンビニへ写真をプリントに。
帰宅後、写真をアルバムに整理。
終わったら近くの宅配便の営業所へ。
親族にアルバムを送った。
10時半に帰宅後、テニスへ行く夫が11時に食べたいと言うので食事の用意。
自分は12時に昨夜以来の食事。
午後は読書と調べ物。
養老7年723年
4/17太政官(長屋王)が次のように奏上した。
「近頃、人民の人口が次第に増加し田や池が不足しております。どうか天下の人民に田地の開墾を勧め割当てたいと思います。その場合新たに溝や池を造り田地を開墾した者があれば多少に拘らず三代目までその所有を許し、もし旧い溝や池を手入れして、使えるようにした場合は、本人の代にのみ所有を許す事にしたいと思います。奏上を可として許可された」(「三世一身の法」と呼ばれる)
↑三世一身の法は長屋王の企画だったのな。
5/9天皇は吉野に行幸。
5/13還幸。
↑持統天皇も不比等も吉野宮大好きやったな。
そこで悪の相談してた。
5/17大隅・薩摩2国の隼人達624人が朝貢。
5/20隼人に宴を賜る。34人の酋長には地位に応じて位を授け録を賜った。
6/7隼人達は郷里に帰った。
7/7太安万侶が卒去。(古事記の撰録者。昭和54年に火葬墓と墓誌が発見された。)↑太安万侶について調べていたらたまたま大津皇子の子供説を発見。
本当だったら嬉しい。
大津皇子は余りに人望があり優秀だったから消された。
太安万侶は非常に優秀たったらしい。
養老7年723年
8/2太政官は次のように処分した。
「朝廷の儀式や衣冠の形式は弾正台と式部省が総括して取締り、誤りを正せ。
もしよく熱意を持って監督すればこれらは自然と礼に適うだろう。
ところが近頃、文武の官人や雑任(雑務を司る下級官人)以上の者の衣冠は決まりに反しており、進退の様子も緩慢で締まりが無い。
ある者は彩りのある綾を衣の裏に付け、軽い薄絹を衣の表につけたり、ある者は冠の紐を長く垂らし度を越して襟にまで及んでいる。
ある者は綾の細い襟にして胸を露わにし、ある者は袴口を括って脛や踝を出している。
このような服装をする者がだんだん多くなっている。
弾正台と式部省のニ司はこれらの服装が制に反している事を明らかに告示せよ」
↑ヤンキーみたいな格好してたって事か?仮にも国政を司る人達の服装がちゃらんぽらんて。
国会議員が居眠りしてるのと変わらないか。
8/8新羅使韓奈麻(官位第10位)の金貞宿ら15人が来朝。
8/25新羅の使者が帰国。
9/9火星が太微と左執法(何れも星座の名称)の中間に入った(兵乱に関わるとされる)
9/17出羽国司の多治比真人家主が言上。
「蝦夷ら全て52人は、征討の際の功績が顕著ですが、まだ褒賞の恩典に預かっておりません。彼らは首を長くして天恩が下されることを待っていますー」
勅命がありその功績に応じてそれぞれ褒美と位を与えた。
神亀元年724年
2/4天皇は位を皇太子に譲られた。
2/4皇太子は元正天皇の譲りを受けて大極殿に即位。
天下に大赦を行った。
従二位の長屋王に正二位を、大伴宿禰旅人、藤原朝臣武智麻呂、藤原朝臣房前に正三位を授与。長屋王を左大臣に任命。
2/6藤原宮子を大夫人と称する事に。
2/22天皇は宮殿の端近くに出御し官人達に位階を授与。
波多朝臣僧麻呂、藤原朝臣豊成に従五位下を。
3/1天皇は吉野に行幸。
3/5帰還。
3/22左大臣長屋王らが奏言。
「恭しく2月4日の勅を拝見しますと、藤原夫人を天下の人々は皆大夫人と称せとあります。しかし、私ども謹んで公式令を調べますと、皇太夫人と称する事になっています。先頃の勅号に依ろうとすれば皇の字を失う事になり令の文を用いようとすれば違勅となる事を怒れます。如何に定めればよいかわかりませんので伏してお指図を仰ぎたいと思います。」
次のように詔があった。
「文書に記す場合には皇太夫人とし、口頭では大御祖とし、先勅での大夫人の号を撤回して後の名号(皇太夫人と大御祖)を天下に通用させよ。」
3/25陸奥国は次のように言上。
「海道(太平洋沿岸の地域)の蝦夷が反乱を起こし大掾の佐伯宿禰児屋麻呂を殺しました。」
4/7藤原宇合を持節大将軍に任命。
海道の蝦夷を征討する為である。
4/18月が火星を犯した。
↑天体で「犯す」とは異常接近する事なんだそう。

https://www.weblio.jp/content/%E7%8A%AF%E5%87%8C%E7%8A%AF
7/1日蝕。
6/1より7/20まで火星の運行が逆になった。
↑なんと!?
10/5天皇は紀伊国に行幸。
10/7天皇御一行は紀伊国那珂郡玉垣の勾頓宮に到着。
10/7海部郡玉津島(和歌浦・玉津島神社あり)の頓宮に10日間滞在。
11/8太政官が次のように奏言。
「大昔は人間が淳朴で、冬は土中に居室を作り、夏は樹上を住処としました。
後の時代の聖人は、その代わりに客室を作り、また京師(都)を拵えて、帝王はそこを住居としました。
万国の使者が参朝する所は壮麗でなければ、どうして帝王の徳を表す事が出来るでしょうか。
今、平城宮に見られる板屋や草葺きの家は大昔の名残で造るのに難しく壊れやすく人民の財を無駄に費やす事になっています。そこで五位以上の官人や庶民の中で造営する力のある者はには瓦葺きの家を建てさせ、赤や白の色を塗らせるように、有司に命ぜられるよう要望します。」
この奏言を許可された。
神亀2年(725年)長屋王事変の4年前
正月24日華蓋(笠の形をして北極星の上にある星座)のところに彗星が現れた。
正月3日(日付の乱れ)この夜、月が土星を犯した。
正月22日藤原朝臣宇合に従三位を授与。
6/22金星が昼に見えた。
10/29昼に金星と木星の光の穂先が互いに合った。
12/1日蝕。
神亀3年726年長屋王事変まで3年
正月21日天皇は宮殿の端近くに出御。藤原朝臣麻呂に正四位上、秦忌寸足国に従五位下を授与。
6/15太上天皇(元正)が病気に。
↑いよいよ準備。
9/12詔。
「今年の秋は大豊作となり民は暮らしも豊かになった。天下の人々とこの喜びを共にしたいと思う。今年の田租を免除せよ。」
↑素晴らしい。史上最高の税収を生み出した日本政府は天下の人々と喜びを分かち合わんのか?
あと、気になったのは藤原宮子夫人の事。
この女性、文武天皇が牟婁の湯へ行幸した際に見初めた海女なのだそう。
https://iyakukeizai.com/beholder/article/1491
で、そのままの身分では妃になれないので藤原不比等の養女として入内。
産後、我が児にずっと会えなかった。
産後鬱とされているが、実際は余りに行動が庶民過ぎて宮中で浮いてしまったので何処かに幽閉されたのだそう。
そりゃあ、長屋親王は面白くない。
父が天皇なのは一緒だとして、長屋王の場合、母も内親王出身の皇后。
更に、右大臣・左大臣として政策もバンバン奏上し、許可され実行に移し、結果も出している。
不比等サイドは文武天皇の時から何かってぇと「不改常典」を持ち出すけれど、それを言うなら天武天皇ー高市天皇ー長屋親王の路線の方が筋が通ってないか?
持統天皇ー文武天皇ー元明天皇ー元正天皇ー聖武天皇のラインより。
持統天皇と藤原不比等がタッグを組んだ辺りから、天皇が10代前半で即位したり、大津皇子や弓削皇子が若くして死に追いやられたり、ドス黒い出来事が沢山起きている。
藤原不比等の父、中臣鎌足の出身の中臣氏は秦氏の支流であるという資料も見つけた。

http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index214.htm
中臣氏は穴穂部皇子や物部守屋、山背大兄皇子らが犠牲となった政争にも絡んでいる。
ちなみに上記の3名は全てニギハヤヒの子孫、つまり天照大御神の子孫。
皆、追い落とされた。
性善説で人を捉える日本人は古代からやられっぱなしよ。
今日はここまで。
16時から夕食作り。

鯛アラと牡蠣と帆立と鱈のアクアパッツァ。
19時に長男一家が到来してからパスタ400gも茹でて投入。
最高に美味しかった。
孫も夢中になって食べていた。
21時半に帰って行った。
お皿は長男が洗ってくれた。
ありがたく読書と調べ物をする事に。
歩数計は7030。
充実した一日だった。